自分は水中にあると想像してみよう。ぶたであるとしても。
今日はあちかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
暑中嘗黙坐、澄心閉目、作水観。
暑中には嘗(つね)に黙坐し、心を澄まし目を閉じて、水観を作す。
暑いときには、つねに黙って座り、目を閉じて心を澄まし、「水」を思い浮かべるようにする。
久之、覚肌髪洒洒、几閣間似有爽気。
これを久しくすれば、肌髪の洒洒(しゃしゃ)たるを覚え、几閣の間も爽気有るに似たり。
しばらくそうしていると、肌や髪がさっぱりしてくるのがわかり、机や書棚の間に、爽やかな気がただよってくる・・・ような気がしてくる。
そんな気がしてくるだけですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明・陸樹声「清暑筆談」より。
じっとしているとアリとか蚊も寄ってきます。見慣れない火のように赤いアリなんかもいるかも。
「観無量寿経」(南朝宋・畺良耶舎訳)に「水想」という精神統一の方法があって、
見水澂清、亦令明了、無分散意。
水の澂清(ちょうしょう)なるを見、また明了ならしめ、意を分散する無からしめよ。
水の澄んで清らかなのを心の中に思い浮かべ、さらにそれを明らかに把握し、心を分散させないようにせよ。
とあります。
また、「想水」というこちらは西方浄土のすばらしさを想像する方法があって、こちらでは
極楽国土、有八池水、一一池水、七宝所成、其宝柔輭。従如意珠王生、分為十四支・・・・。
極楽国土に八池水有り、一一池水は七宝の成すところ、その宝柔輭(にゅうなん)なり。如意珠王より生じ、分じて十四の支と為りて・・・。
極楽国土には八つの池がありまする。それぞれの池の水は七つの宝石が柔軟化して液体化となったものでして、これらは如意珠のすごいでかいやつから流れ出し、十四の支流を作って・・・・。
という、極楽の池水の状況を克明に想像して、「そこにいるつもりになる」、という修行法、すなわち「念仏」の一種なんです。
陸樹声の言っている「水観」は、どちらでしょうか。上の「水想」の方が近いのかな。いずれにせよ、みんないつか浄土に行ける日まで、がんばろー。