平成29年7月9日(日)  目次へ  前回に戻る

コトバにして短冊に書けるような願い事とは「野心」の言い換えに過ぎない。われらが求めるのは「楽したい」「うだうだしたい」「めし」など、不立文字なのである。

明日のことは何も言わないでいただきたい。明日なんか来ないのだから。

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九世紀の終わりごろ、四川成都に無染禅師というひとがいたそうなんです。

ある僧、無染禅師に質問した。

無句之句、師還答也無。

無句の句、師また答うるや無きや。

「コトバにならないコトをお聴きしたら、禅師さまはお答えできますかな」

禅師答えて曰く、

従来唯明恁麼事。

従来ただ明らかなり、恁麼の事。

「そんなことは以前から明々白々じゃぞ」

え? そうなんですか。

僧曰く、

畢竟如何。

畢竟如何ぞ。

「結局のところはどうなんですか」

禅師曰く、

且問看。

しばらく問いて看よ。

「さあ、質問なされよ」

質問した瞬間にコトバになってしまうではないか、ということらしい。

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「景徳伝灯録巻十二より。

明日の事は話題にしたくないんです。月曜日が絶望的なのは従来から明々白々であり、コトバは要らない。

 

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