コトバにして短冊に書けるような願い事とは「野心」の言い換えに過ぎない。われらが求めるのは「楽したい」「うだうだしたい」「めし」など、不立文字なのである。
明日のことは何も言わないでいただきたい。明日なんか来ないのだから。
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九世紀の終わりごろ、四川成都に無染禅師というひとがいたそうなんです。
ある僧、無染禅師に質問した。
無句之句、師還答也無。
無句の句、師また答うるや無きや。
「コトバにならないコトをお聴きしたら、禅師さまはお答えできますかな」
禅師答えて曰く、
従来唯明恁麼事。
従来ただ明らかなり、恁麼の事。
「そんなことは以前から明々白々じゃぞ」
え? そうなんですか。
僧曰く、
畢竟如何。
畢竟如何ぞ。
「結局のところはどうなんですか」
禅師曰く、
且問看。
しばらく問いて看よ。
「さあ、質問なされよ」
質問した瞬間にコトバになってしまうではないか、ということらしい。
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「景徳伝灯録」巻十二より。
明日の事は話題にしたくないんです。月曜日が絶望的なのは従来から明々白々であり、コトバは要らない。