無銭飲食などで怒鳴り散らされるのは仕方ないことだが、↓のようにマジメにやったつもりが怒られるのはツラいことである。
本日は水無月の三十日、新暦とはいえ今年も半分済んでしまいました。
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天気はムシムシしますので、今日もすかっとするお話をしたいですね。
春秋の時代のことでございますが、晋の大夫・范文子が
莫退於朝。
莫(おそ)く朝より退く。
「莫」は「暮」のいわゆる古字。「莫」にほかの意味も出来てから、特に「日暮れ」の意味で使われることを明らかにするために「日」を加えたのが「暮」なんです。「朝」はモーニングの意ではなく、早朝から始まる君主の前での政務会議の意です。
朝廷から、ずいぶん遅くに帰宅してきた。
隠退していたおやじの范武子が問うた。
何莫也。
何ぞ莫(おそ)きや。
「どうしてこんなに時間がかかったのだ?」
何か特別な事件が起こって、それについての議論が長く続いたのではないかと心配したのである。
「いや、何か問題が起こった、というわけではございませぬ・・・」
范文子は答えた。
有秦客廋辞於朝、大夫莫之能対也。吾知三焉。
秦客の朝において廋辞(しゅうじ)するもの有り、大夫これによく対(こた)うるなし。吾は三を知れり。
「秦から来た使節が、御前での会合の際に、なぞかけをおっしゃったのですが、先輩の大夫がたはどなたもお応えになれなかったのです。そのうちの三つについては、わたくしまで発言の順番が回ってきたので回答いたしましたが・・・」
「廋辞」というのは文字通りには「隠されたことば」ですが、なにか比喩的なことを言って、何のことを言っているかを当てさせる「なぞかけ」のことです。外交儀礼として、なぞかけを行って場を和やかにするという手順があったのでしょう。和やかになるためですから、別に答えられなくてもいいのですが、こちら側が答えられないとその場におられる君主などは悔しい思いをすることになったのだと思います。
・・・ところがこの回答を聞いて、おやじの武子の顔色が変わった。
「なんじゃと!」
怒り出したのである。
「まあ、外交儀礼上のことですから・・・」
と文子は言い訳しようとしたのですが、おやじはバクハツして言うには、
大夫非不能也。譲父兄也。爾童子何知。而三掩人于朝。
大夫、能わざるにあらざるなり。父兄に譲れるなり。なんじ、童子、何をか知らん。しかしてみたび人を朝に掩えるとは。
「大夫がたが答えられなかったのではない。長老たちがお応えになられないので黙っておられたのだ! それなのに、おまえのような何も知らん若造が、君主の御前で三回もまわりの方々の心遣いを無にするようなことをしたとは!」
そう来ました。
さらに、
吾不在晋国、亡無日矣。
吾、晋国に在らずして亡すること日無からん。
「わしがこの晋の国におられなくなって、他国に亡命するまで、もうあんまり時間が無くなってきたようじゃわ!」
と言いまして、
撃之以杖、折委笄。
これを撃つに杖を以てし、委笄(いけい)を折れり。
杖を以て文子をぶん殴り、(何度もぶん殴りましたので)ついに文子の冠どめのかんざしが折れてしまった。
のだそうでございます。
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「国語」巻十一・晋語五より。
かなりのくそおやじですが、知ったふうな若造をぶん殴るので、すかっとしま・・・せんか?
厳しい教育を讃える佳話としてよく引かれるお話らしいのですが、その後名宰相として名を馳せた范文子も、その息子が出過ぎた真似をしたときに激怒して追いかけまわしているので、遺伝的な性格なのかも知れません。