おきなわでも行きたいなー。だが、おきなわでもまたどうせ孤立してしまうわけだが。
とりあえず生き延びた。多くの問題を抱えたままだが。
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どこかに行ってしまいたいですね。
というわけで、ちょっと来ました。
犬吠雞鳴石壁深、 犬は吠え雞は鳴き石壁深く、
家家榕樹緑成陰。 家家の榕樹、緑陰を成す。
「榕樹」はガジュマル。上によくキジムナーがいますので要注意。
イヌが吠え、ニワトリが鳴く町の中、石の壁がずっと続いていますよ。
どの家にもガジュマルの木がうっそうとして、緑葉が日蔭を作っている。
ここは那覇の町中なんです。
作者の解説(自注)がありまして、
人家砌石成牆、又多種榕樹以遮日光。
人家砌石して牆を成し、また多く榕樹を種えて以て日光を遮る。
人家は切り石を積んで垣根にし、またガジュマルをたくさん植えて、日光を遮っている。
また、
土俗男子頭髻挿簪以大帛束腰、而女子則不繋帯、可称異風。
土俗、男子頭髻して簪を挿し、大帛を以て腰に束ね、女子すなわち帯を繋がず、異風と称すべし。
こっちの風習では、男は頭にもとどりを結んでかんざしを挿す。そして(男女とも)大きな布を腰のところで束ねているが、女は帯を締めない。本土とは違うところである。
ので、
女児不繋同心帯、 女児は繋がず同心帯、
笑指郎頭合股簪。 笑いて指さす、郎頭の合股簪(ごうこしん)。
「同心帯」というのは、紐の結び方に「同心結び」というのがありますが、それに引っ掛けて、ふつうの帯のことを「心を結びあう帯」とロマンチックに言ってみたのだと思われます。「合股簪」も難しいコトバですが、「合股」といえば「株式会社」で「合股世族」というと「お互いに代々出資しあって繁栄してきた一族同士」というような意味になりますが、ここはあんまり深く考えないで、クリップのような形をしたかんざしをちょっとエロチックに呼んだだけではないかと思いますね。
(琉球衣装は)女の子は帯を締めない風習で、
(「おほほ、これも変だよね」と、)いいひとの頭にカンザシがさしてあるのを笑って指さすのだ。
おあついことでございますなあ。
さらに、夜のお店に「貧困調査」に出ますと、ちょっと驚くのが、
妓家夜不点燈、閉戸闃寂殆不覚其為狭斜也。
妓家、夜に点燈せず、戸を閉ざして闃(げき)として寂、ほとんどその狭斜(きょうしゃ)なるを覚えず。
遊郭は、夜になっても灯りをともさず、戸を閉めて、しーんとしているので、色街にいるとは思えない様子である。
客至叩門、輒応曰恩主来耶。恩主者土語猶言郎君。酒間或搊蛇皮三弦、棖棖可聴。
客至りて門を叩けば、すなわち応じて曰く「恩主来れるや」と。「恩主」なるものは土語にて「郎君」と言うがごとし。酒間、あるいは蛇皮三弦を搊(つまび)くに、棖棖(とうとう)として聴くべし。
「恩主」てなんやねん、と思いましたが、これは「うみしゅ」ですね。「思い主」である。
お客が来て門を叩くと、それに応じて中から「うみしゅ、来てくれたのね」と答え(て、扉をあけ)るのである。「うみしゅ」というのは、土地のコトバで、「おまえさん」というような意味である。まず酒席となるが、そこでは時に、ヘビの皮を張った三弦の楽器(さんしん)をつま弾いてくれる。その音ものがなしく、聞くに値する。
そう言ってこのあとそういう意味の七言絶句が書かれているのですが、意味はおんなじなんでもうめんどくさいから省略。
こんなのがあと十八首あるんで、もうめんどうくさいから省略。
明日はまだ平日で、会社行かないといけないんだった。
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明治の大詩人・森槐南の「沖縄竹枝」二十首より(「槐南集」巻九)。
森槐南は明治20年(1887)11月〜12月、伊藤博文の秘書官として、伊藤の奄美・沖縄・五島歴訪に随行。各所で詩を作っております。おそらく「つじ」あたりと思われる遊郭に行ってばかりいたわけではなく、沖縄医院で「飯匕蛇」(はむひへび)を見たり、家の中でブタを飼っている風俗を調べたり、中城まで行って護作丸について顕彰したりしていたみたいです。
この時から22年後、同じコンビでハルビン駅頭でテロリストの安なんとかに撃たれ、槐南は重傷を負って帰国しましたが、健康を害し、翌々明治四十四年(1911)に亡くなったのでございます。大清帝国にまで知られた槐南先生ぶっ殺しても「義士」になるんなら「おいらもやってみよう」というひとも出るかも知れませんね。