焼き討ちや暴力に日々を過ごしたという荒くれのぶた僧兵。しかし荒くれゆえに激しい修行にも打ち込んだという。
おいらは明日から修行に出ます。山水の中で、自分を見つめ直すのです。
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↓こんな感じです。
・・・船がだんだん陸地に近づいてきました。
「先生、ごらんなちゃい。あの山を」
「まわりの山とは切り離されて一つだけそびえている山があるなあ」
来龍去脈絶無有、 来たるの龍も去るの脈も絶して有ること無く、
突然一峰挿南斗。 突然の一峰、南斗を挿す。
「龍脈」というのは、風水術の用語で、地中の気がつながって流れているラインのこと。陽気が流れているところはたいてい盛り上がっていますので、山脈のかたちを為す。「南斗」は南斗六星のことで射手座の一部であるということですが、ここでは北斗に対して南の空にある星座の代表として、名前を挙げているのだと思われます。
龍脈がどこかから(ここに)流れて来たり、(ここから)どこかに去っていく、というわけではまったくありません。
ここにはつながる山脈も無しに突如として一つの山がそびえていて、南斗の星座に挿しこまれているようだ。
船が近づこうとするここは、南のはて、桂林である。「一峰」というのは、桂林の府内にある独立峰・独秀山(あるいは紫金山ともいう)のことである。
「南の空に聳えているので、「南天一柱」の別名がありまちゅね」
桂林山水奇八九、 桂林の山水は奇なること八九、
独秀峰尤冠其首。 独秀峰はもっともその首に冠たり。
桂林の山や川の風景は、全体の八・九割はひとを驚かすようなものであるが、
独秀山は、その中でも、もっとも最高に変である。
その独秀山に登ります。
「この山のいただき近くには階段がついていて、三百六段あるんでちゅ」
「そうなのか」
がんばって登りました。
三百六級登其巓、 三百六級、その巓に登れば、
一城烟水来眼前。 一城の烟水は眼前に来たる。
三百六段の階段を踏みしめて、そのいただきに登れば、
桂林のまちの靄も水も、すべて目の前に広がっている。
「なるほどなあ」
先生は頷いて、言いました。
青山尚且直如弦、 青山なおかつ直きこと弦の如きなり、
人生孤立何傷焉。 人生孤立するも何をか傷まん。
青い山でさえ、こんなふうにまっすぐに、弓の弦のように屹立しているではないか。
人生において、(今のわたしのように)ひとり孤立しているからといって、何のことがあるものか。
と。
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清・隨園・袁牧「独秀峰」。乾隆四十九年(1784)に桂林に行ったときの作品だそうです。隨園先生は「子不語」などを書いた一代の天才文人ですが、女性を弟子にしたり法外な潤筆料を取ったりしたので知識人仲間ではたいへん評判が悪く、「無耻妄人」とあだ名せられた。そういう知識人どもへの反発が「人生孤立するも何をか傷まん」のコトバに籠められているのだそうでございます。
なお、「直如弦」というのは、後漢の桓帝(在位146〜167)の時、忠臣が退けられ宦官や外戚が力を得たのを風して、民間に流行した、
直如弦、死道辺。 直なること弦の如きは、道の辺に死したり。
曲如鈎、反封侯。 曲なること鈎の如きは、反って侯に封ぜらる。
弓弦(ゆんづる)のようにまっすぐなお方ではないか、道ばたに転がっているむくろは。
釣り針のようにひね曲がったやつらが、貴族になって威張っている世の中だから。
という童謡に基づく。(「後漢書」)
ということで、おいらも山水の中に自分を見つめなおしに行ってきますが、自分を見つめ直すことに成功したらもう帰ってこないと思いますので、まずはお別れを申し上げておきます。さようなら。