こころゆくまで飲み食いすると必ず後悔するものである。
まだ明日も会社か。メシを食っていくためには仕方ないのかなあ・・・。あれ? 確か会社辞めたはずだし、おいらはコドモだし、現世を捨てて彼岸に来た記憶もあるのに、なんでまだシゴトに追われているのであろうか。何か間違っているぞ。
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唐代のことです。福建の牛頭微禅師が、ある僧に
「あなたのやり方はどんなものなのか」
と問われた。
答えていう、
「そうじゃなあ・・・」
山田粟米飯、野菜淡黄韲。
山田の粟米の飯、野菜淡黄の韲(さい)。
「山の中の瘠せた田んぼにできるアワの飯を食っていくか。おかずは野草を浸した薄黄色い漬物しかないぞ」
そのような粗末な食べ物のような禅風だというのである。
「そうなんですか」
僧、重ねて問うて曰く、
忽遇上客来時又作么生。
忽ち上客の来たるに遇うとき、また作么生(いかん)。
「突然、おえらいお客さまが来てくれたときなんかは、どうなされますか?」
すばらしい素質を持った弟子が来たら、特別な扱いをなさるのでは?(わたしなんかどうです?) と訊いたんですな。
禅師、にやにやして曰く、
吃則従君吃、不吃任東西。
吃(くら)わばすなわち君の吃うに従い、吃わずば東西に任せん。
「(うちの粗末なメシが)食いたいなら、おまえさん勝手に食いなされ。食わないならお好きになされよ」
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宋・悟明編「聯灯会要」巻二十三より(「伝燈録」巻十五所収)。そうなんです。今日はどんぶり飯定食・おしんこ・ふきの煮物附きを食いました。どうもゼイタクすぎるかも知れません。最近また体重は増える一方になってきましたし。
道元禅師曰く、
昔釈尊より今に至るまで、真実学道の人、一人も宝に饒(ゆたか)なりとは、聞かず見ざるところなり。(「正法眼蔵随聞記」巻五)
むかしのおシャカさまから現代(の鎌倉時代)に至るまで、真実に仏道を学ばんとしたひとの中に、一人として財宝を豊かに持っていたひとがいたなどとは、聞いたことも無いし見たことも無いことである。
宝に豊かでないようなひとがメシに豊かだったとも思えまぜんので、どんぶりメシは止めた方がいいのカモ。