平成28年12月14日(水)  目次へ  前回に戻る

一日三食でさえ腹が減るのに、二十日で九食は強烈にツラい。(画像はカレーライス、ラーメン、かつ丼の世界三大料理)

まだ二日も。そろそろ平日がイヤな気持ちが強烈になってきまちたよー。

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寒くなってまいりましたので、新しい上着が欲しい。欲しいところですが、貧乏だと買えない。買えないならもらいたい・・・ところですが、そこをガマンしなければならないこともございます。

孔子の孫である子思さまが衛の国におったとき、

縕袍無表、二旬九食。

縕袍(うんほう)に表無く、二旬にして九食なり。

上着に表地が無く綿が出たままで、二十日間で九回しか飯が食えない、というぐらい貧乏であった。

見かねて、衛の大夫・田子方「狐白裘」(キツネの白い毛で作った毛皮の服)を贈った。

田子方も人間通の立派なひとなので、

恐其不受、因謂之曰、吾仮人遂忘之。吾与人如棄之。

その受けざるを恐れ、因りてこれに謂いて曰く、「吾ひとに仮(か)すに遂にこれを忘る。吾ひとに与うるにこれを棄つるが如し」と。

子思がそれを受け取らないような気がして、使いの者にこう言わせた。

「田子方さまは人にモノを貸してもそのことを忘れてしまうし、ひとにモノを与えてもそれを棄てたように思っている方です」

と。

果たして、

子思辞而不受。

子思辞して受けず。

子思は贈与を辞退して受け取ろうとしなかった。

そこで、田子方は直接、子思に言った。

我有子無。何故不受。

我に有りて子には無し。何ゆえに受けざるか。

「わたしには有るものが、先生には有りません。なので、有る方から無い方にお渡しするだけです。どうして受け取ってくださらないのか」

すると、子思は答えた。

伋聞之。妄与不如遺棄於溝壑。

伋これを聞けり。妄りに与うるは溝壑に遺棄するに如かず、と。

「わたくし(「伋」(きゅう)は子思の本名)はこのように教えられました。むやみと人にくれてやるぐらいなら、どぶや溝に棄ててしまった方がましである(※)、と。

伋雖貧、不忍以身為溝壑。

伋は貧なりといえども、身を以て溝壑と為すに忍びず。

わたくしは確かに貧乏でございますが、自分自身をどぶや溝と同じだ、とするのはがまんがなりませぬ」

そうですか。そんなに強烈にイヤならしようがないか。

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「説苑」より(「蒙求」巻中にも「孔伋縕袍」の題で所収)。

のテーゼを子思先生はどこで聴いてきたんでしょうね。ここのところが、逆に「むやみとどぶや溝に棄ててしまうぐらいなら、人にくれてやる方がましである」だったら、ニヤニヤしながら「ありがたいことでございまっちゅ」と受け取れたのではないか。本当は、服の方より「20日で9食、51食抜き」という食生活の方を何とかして欲しいかったのかもしれません。(※伝統的には、田子方が不義のひとであったから、子思はその施しを受けなかったのだ、ということになっているのですが・・・)

 

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