冷酷なわれわれでも、あたたかいモノを食うといいひとに戻ることがある。なお、左図を見る限り、ぶたいぬは同じ量を食べても単位体積当たりぶたの倍ぐらい食べたことになるので、有利である。
ニンゲン社会から亡命したわれら一族、週末は暖炉を囲んで、↓この手の話で楽しく家族団らんだ。
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孫道人はどこの生まれなのかわからないが、つねにザンバラ髪で江南・常熟の町なかをふらふらしていた。体中垢で汚れ、生まれてから一度も髪をといたりお風呂に入ったことが無いのではないかと思われた。
不思議な術を使ったが、どうも立派なものであるとは言い難かった。
たとえば
能飛沙撒土、吹入人家屋子中、無不以手掩目、開盤中器物、簌簌有声。
よく沙を飛ばし土を撒き、吹きて人家屋子中に入れ、手を以て目を掩わざる無く、開盤中の器物、簌簌(そくそく)として声有り。
砂や土を撒き散らして、人家の家の中に吹き込む術があった。攻撃された人はみな手で目を覆って砂土を防ぐが、その間、お盆の上の食器は、ざわざわと音を立てるのであった。
また、
能嚼墨噴人、忽黏肢臂上、雖重襲之内、斑斑悉成点誌。
よく墨を嚼みて人に噴き、たちまち肢臂上に黏(ねば)りて重襲の内といえども斑斑としてことごとく点誌を成す。
墨を口に入れ、ぼきぼきと噛んで「ぷしゅー」と人に噴きかけるのであったが、そうすると腕に粘りついて、何枚重ね着をしていてもその内側に点点と、まだらの痣ができるのだった。
また、
能搬運市肆中物、於袖引出鮮鯽鯉諸魚数十頭、付厨中烹以共食。一日裾下忽作羊鳴。乃出一牡羊。
よく市肆中の物を搬運し、袖より鮮なる鯽・鯉・諸魚数十頭を引き出だして厨中に付して烹、以て共食す。一日裾下にたちまち羊の鳴を作す。すなわち一牡羊を出だすなり。
市場や店のモノを持ち出してくる。袖から新鮮なフナやコイやもろもろの魚を数十匹引っ張り出して来て台所に持って行って煮物にしてもらって、他人と一緒に食べた。
ところがある日のこと、突然、裾の下でヒツジの鳴き声が聴こえた。すなわち、足元から一頭のおひつじが出てきたのである。
羊遽欲走、遂牽於市売之。
羊、にわかに走らんとするも、ついに市に牽きてこれを売れり。
羊はなんとか逃げ出そうとしたが、結局縄をつけて引っ張って、市場に連れて行って売った。
・・・たしかに微妙で零細で倫理的にちょっと悪、というような術ばかりである。
乙巳の年(萬暦二十三年(1595))の春、董学士が転任するため、常熟城門外にある酒家・范家楼で送別会を開いていたところ、孫道人がやってきた。
いい加減酔いも回っていたので宴席の連中が道人に「何か術を見せてくれんか」と声をかけると、
「ほれ、ほれ」
と、
撮出福橘十四枚於袖中、分而嘗之。
福橘十四枚を袖中より撮(つま)み出だして、分じてこれを嘗めしむ。
福建みかんを十四個、袖の中から次々とつまみ出して来て、みなに分け与えて食わせてくれた。
実はその席には筆者もいて、(これが高名な孫道人か)と初めてお目にかかった次第。
後一日過余里門、為小妓所侮。
後一日、余の里の門を過ぎるに、小妓の侮るところとなる。
翌日、道人はわしの家の門前を通りかかって、(我が家お抱えの)娘芸人にバカにされたらしい。
「らしい」と言うのは、その場にはわたしはいなかったからだ。汚いから嫌がられたのであろう。
道人は振り向いて、後ろにいた桃の行商人に向かって、
借汝一桃。
汝の一桃を借りん。
「おまえのモモを一個借りるぞ」
と言うと、
遂拾以擲其面。
ついに拾いて以てその面に擲つ。
ちょちょい、と籠からモモを拾い上げ、娘芸人の顔に向かって投げつけたそうなのである。
モモは娘の顔に当たるか当たらないか、という瞬間に、そのまま頬に吸い込まれ、
右頬立時赤腫、如桃大焉、楚不可忍。
右頬立時に赤腫すること、桃の大いさの如く、楚(いた)きこと忍ぶべからず。
右頬がたちまちに赤く腫れあがって、桃と同じ大きさになってしまった。とにかく痛くてしようがなかったらしい。
「うわーん、ごめんなさいー」
と泣きだしたので、書斎にいたわたしもようやく異変に気付き、門前に出てきて、事の次第を知ったのである。
還復哀祈。
またまた哀祈す。
娘芸人と一緒にわたしも謝った。
すると、道人は
索杯水、咒之、三噀其腫、漸消、都亡所患。
杯水を索(もと)め、これに咒して三たびその腫に噀するに、ようやく消え、すべて患うところ亡し。
茶碗に水を汲んで来いというので、言われるままに渡すと、何やら呪文を唱えたあと、水を口に含み、三回娘の腫物に噴きかけた。一回噴きかけるごとに腫物はだんだん小さくなり、三回目でまったく消えてしまった。
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明・銭希言「獪園」巻四より。
著者がその目で見たことのようであるから、本当のことなんでしょうなあ。すごいなあ。