ぶた型ハニワがあるぐらいなら、ひと型樹木もあるのであろう。
今日は美味いすし食った。うはうは。美味いもの食うと、明日までは元気でいようかな、と顔が自然にニヤニヤする。
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八王の乱の混乱の中で西晋が滅び(建興四年(316))、五胡といわれる異民族が中原に侵入してまいりましたが、その中で、匈奴族が前趙と呼ばれる国を建てたました。
内紛の中で劉曜が帝位に就き(光初元年(318))、その後の数年は何とか国情も落ち着いていた。
そんなある日、宮廷の内庭で、
大樹風吹折。
大樹、風吹き折る。
強い風が吹いて、一本の大樹が吹き折られた。
幹の下部だけが残っていたが、
経一宿、樹忽変為人形。
一宿を経て、樹たちまち変じて人形(じんけい)を為す。
一晩たつと、その幹はいつの間にか変形して、ニンゲンの形になっていた。
その様子は、
髪長一尺、鬚眉長三寸、皆黄白色。有斂手之状、亦有両脚著裙之形。
髪は長さ一尺、鬚・眉長さ三寸、みな黄白色なり。斂手の状あり、また両脚に裙を著くるの形有り。
髪の長さ30センチ、ヒゲと眉はどちらも10センチ近い長さがあり、これらはみな黄色がかった白であった。両手は胸の前で組み合わせており、両脚はハカマを着けているように見えた。
というのであったが、
惟無目鼻。
ただ、目鼻無し。
ただ、目や鼻は無かった。
のである。
この木は、
毎夜有声。
毎夜声有り。
毎晩、何やら声を出した。
うめき声にも、笑い声にも、あるいは悲しみ啼く声にも聞こえたというが、しかし
十日而生柯條、遂成大樹、枝葉甚茂。
十日にして柯條を生じ、ついに大樹と成り、枝葉甚だ茂れり。
十日ほど経つと幹に枝が生えはじめ、あれよあれよという間にやがて再び大樹に成長し、枝や葉がこんもりと繁った。
ニンゲンの姿も樹皮の中に没してしまい、それからはおかしな音は出さなくなったのである。
それにしても不思議のことである。宮廷から、山中にある賢者に相談があった。
賢者は使者のコトバを聴き終えると、
「・・・顔が無かったのですな。顔が無ければ恐れるには及びますまい」
と答えたという。
ほとんど同じころ、江南に亡命した晋(東晋)の明帝・大寧元年(323)、会稽の地で
木生如人面。
木に人面の如きを生ず。
木にひとの顔のようなものが浮かび上がった。
その顔はどうやらニヤニヤと笑っているように見えたそうだ。
東晋の宮廷にはまた賢者があって、このことの意義を問われ、
「・・・顔だけだったのですな。顔だけであれば、禍いは半ばで済みましょう」
と答えたのであった。
その直後、前年にクーデターを起こしながら一度は忠誠を誓っていた王敦が再び叛乱を起こしたが、明帝の果断な措置と王敦自身の病没によって、乱は鎮圧され、東晋はなんとかその命脈を保ち、
禍敗無成。
禍敗成す無し。
禍いは完遂されること無く終わった。
事件の終わる前には会稽の木は枯れ落ち、人面のごときものも消え去っていた、という。
さて、顔はどこに行ったのか。
その後、前趙は配下の猲族・石勒を中心とした後趙勢力に滅ぼされた(光初十二年(329))のでございますが、その前に顔がどこかに現れたのかどうか。
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うっしっし。にやにや。唐・陸勳集「集異志」巻四より。顔は今どこにあるのかな?