平成28年10月19日(水)  目次へ  前回に戻る

ここまでの経緯、これからの展開について、純粋に想像がつかないシチュエーションである。

三日連続で会社に行った。さすがにふつうのひとでさえ三日連続で社会と関連すれば疲れると思うが、なにしろこちらはコドモ的な人物なんです。もう限界越えてきました。

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コドモなら心は純粋なのでは?

と思うひとがいるカモ知れませんが、おいらたち肝冷族は単にオトナ的現実から逃避しているコドモ的人物なだけでして、純粋ではありません。

純粋な人たちは別におります。たとえば、

五覇者摟諸侯以伐諸侯者也。故曰五覇者三王之罪人也。

五覇なるものは諸侯を摟(ひき)いて以て諸侯を伐つ者なり。故に曰く、五覇なるものは三王の罪人なり、と。

と言った人なんか、純粋なひとです。(「孟子」告子下篇第七章)

「五覇」は春秋時代に、周王に代わってほかの諸侯を率いて夷狄と戦ったり、諸侯同士の争いを裁いたりした力のあった諸侯のことで、具体的にはいくつかの説がありますが、朱子に拠れば、斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の五人なんだそうです。

さて、「討伐」という言葉がありますが、「討」と「伐」とは違うもので(孟子によれば、ですが)、本来、超古代の三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王)の時代には、「討」は天子が命令を出して、諸侯のうちの長である「方伯」に、罪ある諸侯を攻めさせること、を言い、「伐」は方伯が天子の命令を受けて、ほかの諸侯を率いて罪ある諸侯を攻めること、を言ったそうなんです。

ところが、

春秋時代の「五覇」は、天子の命令を受けずに、自分の判断で諸侯を率いて罪あると考えた諸侯を攻めたのである。だから、この「五覇」は、超古代の「三王」から見れば、まさに討伐の対象となる罪人というべきなのだ。

と、孟子は言うのです。大義名分を大切にする純粋な孟子らしいですね。

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さて、この文章を19世紀の半ばごろ読んだ日本のある青年が次のように言った。

頼朝以下本邦にも五覇あり。(源氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏是也。北条氏は云はず。)

頼朝以下、我が国にも五人の覇者がいる。(源氏と足利氏と織田氏と豊臣氏と徳川氏のことである。北条(執権)は入らない)

諸侯を摟き諸侯を伐つ、その事亦相似たりと云ふべし。其の間又天子の命を奉じて其の罪を声(なら)し、是れを討ずる物あり。就中(なかんづく)頼朝の藤原泰衡を伐し、秀吉の相模・薩摩を伐する如き、其の義尤も顕明なりと云ふ。

自らの判断で諸侯を率いて諸侯を討伐した、という行為もよく似ている。その中には、天子の命令を受けて相手の罪を公表して、そいつを討伐した場合もある。中でも頼朝が奥州藤原氏を攻めたやつや、秀吉が相模・北条氏、薩摩・島津氏を攻めたやつは、天子の命令を受けたという意義の非常にはっきりした場合である、といえよう。

又案ずるに、集注に、五覇は功の首にして罪の魁なりと云ふことあり。此の言和漢に通じて的当と云ふべし。而して頼朝の如き尤も功首罪魁と称すべし。

また考えてみますに、朱子の「孟子集注」に、「五覇は功績も第一だが、罪を犯した点でも先頭にある」ということが書いてある。これはチャイナだけでなく我が国についてもぴったりと当てはまるといえるだろう。頼朝のごときは、本当に、功績も第一だが罪を犯した点でも先頭にある、というべきである。

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これに対して、オトナの儒者であった山縣太華さんが諭しました。

覇者の諸侯における、皆同列にして其の臣に非ず。

春秋の覇者たちと諸侯との関係は、同列の関係であって主君と臣下という関係にはない。

―――しかるに、我が国の例をみると、頼朝と三浦、畠山、佐々木、熊谷、梶原との関係、足利と細川、畠山、斯波、山名、仁木、赤松との関係、織田と柴田、丹羽、滝川、前田、羽柴、惟任(←明智ですね)の関係は、みな同じように将軍とその家臣の関係である。

秀吉が天正年間の末に、領地の御朱印を諸大名に賜いて君臣の分を定め、台徳大君(家康さま)元和の初めに御朱印を諸大名へ分かち給うもまた同じである。今の諸侯は臣下の礼を以て長く幕府に仕えてきて、幕命を奉じて戦争に出かけるものなのであるから、諸侯をひきいて諸侯を伐つ、というのとは性格が違う。

則ちこれを以て漢土の五覇に擬すべからず。

であれば、我が国の五氏を指して、チャイナ春秋の五覇とよく似ている、ということはできない。

なんという良識に富んだご意見でしょうか。

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これに対し、青年はまた反論しました。

―――春秋時代に諸侯というのは公侯伯子男といった五段階、そのほかにもその附属国もあったのだからみな同列ではなかった。これは今の大将軍(徳川家)と一万石の小大名が同列でないのと同じである。

ただ、

時世の変は様々あれども、一命以上皆王臣なり。其の下草莽市井の庶民も別に属する所なければ王民なり。其の他は陪臣なり。陪臣も王朝の民なり。

時代によっていろいろ違いはあるけれども、士分以上に取り立てられた者は、みな天子の臣下である。その下の、草むらや町なかに暮らす士分にならない人民どもも、どこかに属していないなら、みんな天子の民である。どこかに属しているやつは陪臣であるが、陪臣というのも(途中に主君をはさむだけで)天子の国の人民である。

だから、チャイナの諸侯と諸侯の関係と、我が国の頼朝・足利・ノブナガさま・秀吉・徳川氏と大名たちの関係は同じであるというべきである―――。

ええー!?

草むらや町なかのやつまで天子の民で、将軍さまと同列ですと! なんという暴論であろうか。

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といった青年は、もちろん松陰・吉田寅次郎です(「講孟余話」)。純粋な心なので「孟子」をこのように読めたんでしょう。みんなびっくりしたでしょうね。

 

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