平成28年10月13日(木)  目次へ  前回に戻る

社会と絶縁したので落ち着いた暮らしができるようになった・・・。

あと一日だ。あと一日社会と無関係に暮らせば、明後日はやっと休日に・・・。

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―――山の中で社会と無関係に暮らしますと、なかなか困ったことも起こるんですじゃ。

清渓三百曲、 清渓三百曲、

春雨薬苗肥。 春雨に薬苗肥ゆ。

朝把長鑱去、 朝たに長鑱(ちょうさん)を把りて去(ゆ)くに、

雲深不得帰。 雲深くして帰るを得ず。

 ぐにゃぐにゃと三百回も曲がりくねる清らかな(わしの棲む)谷では、

春雨も降って薬草がどんどん成長してきた。

朝、長い柄のついたスコップを持って薬草採りに出かけてきたが、

夕方には雲が谷に深く立ちこめて、帰り道がわからなくなってしまったぞ。

まあいいか。どこで寝たっておんなじじゃ。うっはっは。

―――今日は用事で町に出かける。社会と関係するので、イヤだなあ。

聴鶯朝出谷、 鶯を聴きて朝たに谷を出で、

踏月夜帰山。 月を踏みて夜、山に帰る。

只在白雲裏、 ただ白雲の裏(うち)に在り、

逍遥心自フ。 逍遥するも心自ずからフなり。

 朝方、ウグイスの鳴き声を聞きながら谷の庵を出て、

 夜、月光を踏みしめながら山中に帰ってきた。

 ここは朝も、夜も白雲のたちこめるところである。

 ぶらぶらしているだけで、心がおのずとのどかになるのだ。

社会関係を棄ててここに帰ってくるとほっとするぜ。うっはっは。

―――しかもわしは仏門に入っているのだ。

喬松棲皎鶴、 喬松は皎鶴を棲まわせ、

修竹払青雲。 修竹は青雲を払う。

一朶花供仏、 一朶の花、仏に供うれば、

袈裟尽日薫。 袈裟は尽日薫りぬ。

 高い松には白い鶴が棲んでいる(ように、人里離れたところに住んでいるのは徳の高い者なのだ)。

 長い竹は(風に吹かれて)空の青雲を掃いのける(ように見える。わしも俗世の欲望は払い除けよう)。

(清らかなキモチで)一枝の花をみほとけにお捧げして、朝の勤行をします。

すると、花の香が沁みて、わしの袈裟は一日中いいにおいがするのである。

ああいい生活だなあ。

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本朝・天田愚庵「愚庵即事」愚庵での即席の作品)(「明治漢詩文集」所収)。

天田愚庵(嘉永七年(1854)〜明治三七年(1904))は数奇な人生を送ったひとで、もと磐城平藩士。平藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に属して「賊軍」となりました。天田もこの戦役に従い、各地を転戦した後、敗者として郷里に帰ると一家は離散しており、家族を探して諸国を放浪(兄一人と邂逅している)。駿河で清水次郎長の養子となって山本五郎と名乗り富士裾野開墾に従事。その後、天田姓に戻り、有栖川宮家に仕え、明治七年(1874)には台湾出兵に従事。明治二十年ごろ、山岡鉄舟の教えを受けて禅門に入り、鉄眼愚庵と号して京都伏見に庵を結んだ。漢詩・書をよくしたほか、万葉集を研究して和歌を詠み、正岡子規と往来して、子規の「短歌」運動に大きな影響を与えたひと、なんだそうです。おもしろいですね。上記の詩は、伏見時代のことになります。わざわざ東京まで年下の子規を訪ねて行ったりしているので、俗世との縁は切れていないようですね。

・・・・と、ここで、なんと行方不明の足冷斎から連絡が入った! 

受話器の向こうで

「た、たすけてくだちゃい・・・」

というのである。

「どうしたのだ!」

「通風で足が痛くて逃げ遅れて、肝冷斎の勤めていた会社につかまり、「代わりにハタラクのだ」と言われて月曜日から働かされているのでちゅ・・・」

「な、なんだと!」

なんということでございましょう。会社は、肝冷斎の代わりに胆冷斎を働かせていましたが、胆冷斎が「やってられませんよ」と逃げ出したあと、こともあろうに無能の足冷斎を働かせていたのです。

「だ、だからわれわれのところに「シゴトに来い!」という連絡が無かったのか・・・」

しかし、足冷斎のあまりの無能が明らかになった今、会社は別のやつを求めてくること、必定なのでございます。あわわ。(明日に続く?)

 

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