平成28年9月11日(日)  目次へ  前回に戻る

もしかしたら向上できそう・・・になると、現実が足を引っ張ったりするでカメ。

しばらく身を隠していたところ、あ――――という間に秋になっていました。
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清而安流、水之性也。

清にして安らかに流るは、水の性なり。

清らかで、かつ静かに流れて行くのが、水の本来のすがたである。

ところが、その水が、

其遇泥滓而汚濁、遇険而波濤洶洶、非其性也。

その泥滓に遇いて汚濁し、険しきに遇いて波濤の洶洶(きょうきょう)たるは、その性にあらざるなり。

ドロとかゴミとかに出会わして汚れ濁ってしまったり、急峻な地形を通るために波が激しく湧くのは、その本来のすがたから外れてしまっている状態なのである。

けれども、

然不可不謂之水、特所値者異耳。

然るにこれを水と謂わざるべからず、特(ただ)に値(あ)うところのものの異なるのみ。

しかしながら、(そのような状態であっても)それを「水ではない」というわけにはいかない。水ではあるのだが、出会わしたモノや地形のせいで異常になっている、というだけのことなのである。

―――心もまた水と同じなのですじゃよ。おまえさんの心も、本来静かで安らかであるはずなのに、変なモノに出会わして異常になってしまっているだけなのじゃ。さあ、本来のすがたに戻りなされ。

「なるほど!」

と納得しまして、あちら側に行って本来の姿に戻っていたんです。一週間経って、ちょっと戻ってきてみました。みなさん、どうしてるかな。わたしはまたすぐあちら側に行きますが・・・。

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朝鮮・李退渓「答鄭子中書・別紙」「自省録」所収)より。この手紙は儒学のプロ同士の間で、ひとの「性」とはどのようなものかというアカデミックな議論をしているのですが、東アジアの学問は欧米的な「哲学」や「神学」ではなくて、自分で「体認」していく必要がある学問なんです。なので、論文がそのまま老哲人の説教のような、生きる糧になるんですなあ。

退渓先生・李滉はこのカッコいいおやっさんですねん。おだやかとはいえキビシイので、弟子になるとキツイと思われますが。

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