絶望という名の列車に乗って行こう。流線型の輝くボディーの。
今日はむかしの仲間と北海道料理。「白いタマゴ」美味しうございました。このため今日は一食抜いたのである。
いろいろ今の仕事のグチを言い合って帰ってきたが、なんと、体重は一食抜いても増えていたのだ! ああ、命なるかな。おいらの宿命だ、こうなるしかない宿命なのだ!
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12世紀のことでございます。大納言・源顕通の子で天台座主となった明雲は、あるとき、
問相者曰、身亦有兵仗之厄乎。
相者に問いて曰く、「身もまた兵仗の厄有らんか」と。
占い師に問うた。
「わしは、武器によって害されることにならないであろうか」
占い師は即座に答えた。
有。
有り。
「そうなることでございましょう」
「むむむ・・・」
明雲は難しい顔をして頷いた。
占い師が退出してきたところで、侍僧の一人が問うた。
何以知之。
何を以てこれを知れる。
「どうして、即座に「有り」と答えられたのですかな」
占い師は答えた。
公身故応無傷害、而今言如斯。是乃其兆耳。
公の身はことさらに傷害無かるべきなるに、今言うこと斯くの如し。これ、すなわちその兆しなるのみ。
「座主さまは、僧にして高貴なる身、傷つけられ害せられることなど普通にはございますまい。その方が、わざわざあのようなことをお訊ねになられたのです。それには何かの予感がおありなのでございましょう」
と。
後、寿永二年(1183)、木曽義仲が後白河法皇を攻めたいわゆる法住寺合戦の際、明雲は、
果中流矢死。
果たして流矢に中りて死せり。
はたして、流れ矢が当たって、戦陣の中で死んだのであった。
またいう、陰陽師・安倍泰親、
占明雲二字。
明雲の二字を占えり。
「明雲」という二文字の名前について運命を占ったことがあった。
泰親曰く、
明是日月、而下被雲障。不祥。
「明」はこれ「日・月」なり、しかして下、雲障を被る。不祥なり。
「明」という字は「日」と「月」でござる。その日月が、地上との間の雲にさえぎられて見えなくなっているのだ。不吉なことじゃ・・・。
終わりを善くせぬ宿命であったのだ。
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山下直温「皇朝蒙求」巻一より。
山下直温は江戸のひと、明治十二年に亡くなったそうですが、生前、幕末のころに本朝の有名人の逸話を「蒙求」に倣って収集し、漢文で叙述した。これを明治十四年、その息・直太郎が出版したのが「皇朝蒙求」である。
ちなみに前半は「徒然草」第146段「明雲座主、相者に逢ひ給ひて・・・」というお話の漢訳です。