平成28年7月21日(木)  目次へ  前回に戻る

絶望という名の列車に乗って行こう。流線型の輝くボディーの。

今日はむかしの仲間と北海道料理。「白いタマゴ」美味しうございました。このため今日は一食抜いたのである。

いろいろ今の仕事のグチを言い合って帰ってきたが、なんと、体重は一食抜いても増えていたのだ! ああ、命なるかな。おいらの宿命だ、こうなるしかない宿命なのだ!

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12世紀のことでございます。大納言・源顕通の子で天台座主となった明雲は、あるとき、

問相者曰、身亦有兵仗之厄乎。

相者に問いて曰く、「身もまた兵仗の厄有らんか」と。

占い師に問うた。

「わしは、武器によって害されることにならないであろうか」

占い師は即座に答えた。

有。

有り。

「そうなることでございましょう」

「むむむ・・・」

明雲は難しい顔をして頷いた。

占い師が退出してきたところで、侍僧の一人が問うた。

何以知之。

何を以てこれを知れる。

「どうして、即座に「有り」と答えられたのですかな」

占い師は答えた。

公身故応無傷害、而今言如斯。是乃其兆耳。

公の身はことさらに傷害無かるべきなるに、今言うこと斯くの如し。これ、すなわちその兆しなるのみ。

「座主さまは、僧にして高貴なる身、傷つけられ害せられることなど普通にはございますまい。その方が、わざわざあのようなことをお訊ねになられたのです。それには何かの予感がおありなのでございましょう」

と。

後、寿永二年(1183)、木曽義仲が後白河法皇を攻めたいわゆる法住寺合戦の際、明雲は、

果中流矢死。

果たして流矢に中りて死せり。

はたして、流れ矢が当たって、戦陣の中で死んだのであった。

またいう、陰陽師・安倍泰親

占明雲二字。

明雲の二字を占えり。

「明雲」という二文字の名前について運命を占ったことがあった。

泰親曰く、

明是日月、而下被雲障。不祥。

「明」はこれ「日・月」なり、しかして下、雲障を被る。不祥なり。

「明」という字は「日」と「月」でござる。その日月が、地上との間の雲にさえぎられて見えなくなっているのだ。不吉なことじゃ・・・。

終わりを善くせぬ宿命であったのだ。

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山下直温「皇朝蒙求」巻一より。

山下直温は江戸のひと、明治十二年に亡くなったそうですが、生前、幕末のころに本朝の有名人の逸話を「蒙求」に倣って収集し、漢文で叙述した。これを明治十四年、その息・直太郎が出版したのが「皇朝蒙求」である。

ちなみに前半は「徒然草」第146段「明雲座主、相者に逢ひ給ひて・・・」というお話の漢訳です。

 

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