夏。巴里祭の季節だわん。それにしても巴里を知らぬやつらは下品だからガツガツ食うなあでわん。
巴里祭だが我が国では休みにならないので、今日も平日。もう心身ともにダメだ。・・・カネさえあれば美味いものも食えるし、自分に誇りも持てるし、心身ともに元気になれるだろうになあ。
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清の時代です。
某というお金持ちが、
月夜酔帰、遺金巷隅。
月夜酔いて帰り、金を巷隅に遺せり。
月夜の晩に酔っ払って帰ってきたのだが、金貨をどこかの路地に置き忘れてきた。
抵家憶及、依路往尋、得金道上。
家に抵(いた)りて憶い及び、路に依りて往尋するに、金を道上に得たり。
家に着いたところで酔いが醒めて思い出した。(夜が明けるのを待って、)来た道を戻りながら探してみたところ、金貨が道の真ん中に落ちているのを見つけた。
「ああよかった。全財産から見れば大したことは無くても、金を粗末にしてはいかんからなあ」
金貨を懐に入れていれなおしているのを、
旁有一丐訝。
旁らに一丐(がい)有りて訝しむ。
そばにコジキが一人いて、不思議そうに某を見つめているのに気が付いた。
「なんだ? 何か用か?」
気味悪くなってコジキに訊ねると、コジキが言うには、
明有一老人臥地。如何爾来、老人化金。
明に一老人の地に臥す有り。如何ぞ爾(なんじ)の来たるや、老人金に化する。
夜明けに見たときには、そこには年寄りが一人横になっていたのでごぜえますよ。それがどういうわけだか、だんなさまがお見えになったら、その年寄りが金貨に化けてしまいおったのです。
「なんと」
そこで、
訊老人状、宛似故父。
老人の状を訊ぬるに、あたかも故父に似たり。
横になっていたという老人の姿かたちを聞いてみたところ、どうも死んだおやじにそっくりである。
「なるほどなあ」
某は大いに感動した。
祖宗庇護、幸免失金。
祖宗の庇護によりて、幸いに失金を免れたり。
「ご先祖さまのお助けで、たいせつな金を失くさずに済んだのだ。ありがたいことだ」
そのことを某は人に会うごとに吹聴したが、よくよく考えてみるに、
守財虜豈非乃翁耶。
財を守るの虜は、あに乃翁(だいおう)にあらざるや。
おやじさんは、死後も財産を守るための奴隷(守銭奴)になってしまっているのではなかろうか。
次は某自身がそうなってしまうのであろう。
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清・朱海「妄妄録」巻九より。
さて、みなさんの文化では「死んでもお金を放しませんでした。」は、美談ですか? 愚かなことでしょうか?
著者の朱海は蘇州・呉県の人で、蕉圃と号す。生涯を幕僚として過ごし、貧困にして志を得なかった、というひとです。そういう人は当時の清帝国には大量にいただろうと思うのですが、このひとは変な話が大好きだったみたいで、幼少のころから聞いた幽霊や死者に関する話を乾隆五十九年(1794)にまとめた。それがこの「妄妄録」で、そのまま埋もれていても仕方のないような(くだらない)本ですが、どういう事情からか道光十年(1830)に出版されて、今に伝わったんですな。