誰が歌ってくれるのか、肝冷斎へのレクイエムを。
今日は納豆の日だったんだそうですが、明日はもう月曜日、平日になります。金曜日に失態をして、そのまま休みになって、明日はまたその問題と向き合わなけらばならないのだ。もうダメだ。さようなら。
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唐の大中(847〜859)、咸通(860〜873)のころ、その才能を謳われた来鵬は予章の人で、もと
林園自楽、師韓柳為文。
林園に自楽して、韓柳を師として文を為(つく)れり。
森林や農園で自足して楽しく暮らし、韓愈と柳宗元を手本として文学作品を作っていたひとであった。
特に詩を得意にしていたが、
蓄鋭既久、自傷年長、家貧不達。
鋭を蓄うること既に久しく、自ら年長なれども家貧にして達せざることを傷む。
するどい才能を内に蓄えたまま長い間認められることなく、年かさが増しても家は貧しいままで出世することのできないことを、嘆いていた。
いつも暗い顔をするようになって、そうすると、
「あなたは才能の割りに恵まれていないようですな」
とお偉方が声をかけてくれても、
「決して富貴を望んでいるわけではないんですよ(しかし、賞賛される才能はあるはずなのに、みんななぜ賞賛しないのだ・・・)」
と不満を持っているのではないかと疑われるようになってきた。
頗亦忿忿、故多寓意譏訕。当路雖賞清麗、不免忤情、毎為所忌。
頗るまた忿忿たりて、故に多く寓意して譏訕あり。当路、清麗を賞するといえども、忤情に免れず、つねに忌むところと為る。
たいへん憤懣やるかたなく、ために詩句には比喩のかたちで(えらい人たちを)そしり、あてこする内容が多い(と評判されるようになったのである)。お偉がたたちは、彼の詩のさわやかで麗しいのを称賛したが、その一方でムカムカするところもあって、いつもダメ出しされていたのである。
例えば、
青帝若教花裹用、 青帝もし花をして用を裹ましむれば、
牡丹応是得銭人。 牡丹はまさにこれ得銭の人ならん。
春の時節を支配する天帝が、花にいろんなものを与えて隠し持っておかせたとしたら、
さしづめボタンは、たんまりお金をもらった人なのではなかろうか。
これは富を貯えているお偉方を批判している―――ように読まれた。
無限旱苗枯欲尽、 無限の旱苗、枯れて尽きんと欲するに、
悠悠閑処作奇峯。 悠々たる閑処、奇峯を作す。
見渡す限り、水が足りずに苗が枯れてしまおうとしているのに、
はるかかなたのゆったりとしたところでは、不思議な形の嶺のように、雲が湧いている。
これは一部のお偉方がしもじもの困窮を慮らずに、自分たちだけ豪勢にやっている、ということを批判している―――ように読まれた。
可惜青天好雷電、 惜しむべし青天の好雷電、
唯能驚起懶蛟龍。 ただよく驚起す、懶蛟龍を。
青空のかなた、かみなりの音がかなりよく聴こえたが、
結局、さぼっていた水龍をたたき起こしただけであった。
これは皇帝が新しいことを始めようとしても、お偉方たちがサボタージュして進まないことを批判している―――ように読まれた。
坐是凡十上不得第。
これに坐しておよそ十たび上るも第を得ず。
こういう点をダメだとされて、だいたい十回試験を受けたが、とうとう受からなかった。
尚書令の韋忠さまが彼の才能を買っていて、四川に赴任するときに幕僚として採用し、自分の娘のムコにしようという話もあったらしいが、
「もうわたしなんかダメですよ」
と言って断ったとかで、沙汰止みになったそうである。
韋忠の推薦を受けてまた一度科挙に挑むこととしたが、その詩巻中に
一夜緑荷風剪破、 一夜緑荷(りょくか)、風剪りて破り、
嫌它秋雨不成珠。 它を嫌いて秋雨、珠を成さず。
ある晩、風がみどりのハスの葉をびりびりと切り裂いた。
そのため、秋の雨も、そのハスの葉には露の珠を結べない。
という句があるのを韋忠が見つけ、
以爲不祥。
以て不祥なりと為す。
「これは縁起悪いぞ」と眉をひそめた。
そして、
果失志。
果たして志を失えり。
結局やっぱり不合格であった。
廣明元年(880)に黄巣の乱が起こり、来鵬は乱を避けて荊州地方を放浪していたが、翌中和元年、
客死於維楊逆旅。
維楊の逆旅に客死せり。
揚州の宿屋で、死んでしまった。
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元・辛文房「唐才子伝」巻八より。
おいらもこんな感じで乱を避けることにします。さようなら。