平成27年12月7日(月)  目次へ  前回に戻る

おとこ純情のクマ人生だお。

やっと月曜日終了。あと四日も平日が・・・。そんな現実はもう見たくない。

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六朝の晋・宋のころの歌に「丁督護の歌」というのがあります。

「宋書」「楽志」(音楽史)にいう、晋の末年、大将軍・劉裕は彭城内史の逵之を高く評価し、自らの長女を嫁がせた。しかし、徐逵之はある戦闘でその陣を破られ、白兵戦の末、戦死してしまう。戦場のことであり、手厚い葬儀もならず、劉裕は配下の丁旿(てい・ご)をしてその亡骸をおさめしめ、葬らしめたのであった。

丁旿はこのとき、「府内直督護」という官職にあったので、「丁督護」と呼ばれていた。

出征軍が戻ると、徐逵之の妻である劉裕の長女は、

呼旿至閤下、自問殮送之事。

旿を呼びて閤下に至らしめ、自ら殮送の事を問う。

丁旿を屋敷の廂の下に呼び寄せて、自らしたしく夫を葬ったときのことを問うた。

そして、

毎問輒歎息、曰丁督護。

問うごとにすなわち歎息して曰く、「丁督護」と。

質問するごとにためいきをついて、言った。「ああ、丁督護よ(、教えておくれ)」と。

其声哀切、後人因其声広其曲焉。

その声哀切、後人その声に因りて、その曲を広くす。

その声があまりに悲しく、切なかったので、後のひとびとは、彼女の哀切な声をまねて、「丁督護の歌」を作り、広めたのであった。

劉裕は、その後司馬氏の晋より禅譲されて宋を興した宋の武帝そのひとであり、長女は史上に会稽公主といわれる。

武帝自身が作った、という古い「丁督護の歌」が数首遺っている。もし武帝自身が作ったとすれば、あまりに人情にもとるから、それは伝説に過ぎないであろうけれど。

洛陽数千里、 洛陽、数千里、

孟津流無極。 孟津(もうしん)の流れ、極まり無し。

辛苦戎馬間、 戎馬の間に辛苦し、

別易会難得。 別るるは易く会うは得難かりし。

 あなたの行った洛陽は数千里のかなた、

孟のみなとから無限の遠くにあるという。

 あなたは軍馬といっしょに苦労しているのでしょう、

 別れるのはたやすいのに、会うのはどうしてこんなに困難なのか。

督護初征時、 督護初めて征くの時、

儂亦悪聞許。 儂(われ)もまた聞許を悪む。

願作石尤風、 願わくば石尤風(せきゆうふう)と作りて

四面断行旅。 四面に行旅を断たん。

 督護さまがこれからお出かけだというとき、

 あたしだって、そんなこと聞きたくないと思った。

 できることなら「石尤」の風になって

 どこにも旅立てないようにしたかったケド。

聞歓去北征、 歓の去りて北に征くと聞き、

相送直瀆浦。 相送る、直瀆の浦。

只有涙可出、 ただ涙の出だすべきあるのみ、

無復情可吐。 また情の吐くべき無し。

 あなたが旅立って北に行くと聞いたから、

 追いかけて行って、直瀆(ちょくとく)の船着き場まで見送った。

 ただただ、涙がこぼれるばかり、

 言いたいことも言えなくて。

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「楽府詩集」第四十五巻より。

これは、徐逵之の戦死という事実とは関係の無い、恋しい人を見送るかわいいオンナのコの歌ですね。六朝歌謡の魅力である「純情」があふれるばかりに歌われております。しかも「督護」と呼ばれている相手のオトコの言葉が一言も無いので、オンナのコの純情のキモチが通じているのかどうか、さえもわかりません。現実を見てないのカモ。

 

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