平成27年11月12日(木)  目次へ  前回に戻る

コドモは純粋なはずなのに、怪しいこともする。

お酒は醒めると飲む前より世の中ツラくなっているんです。―――あ、マズい。コドモなのに飲酒したのがバレてちまう。オトナのふりしよっと。

えー、おほん。ですな。

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許宣平というのは安徽の新安・歙(きゅう)県のひとであるが、唐・睿宗の景雲年間(710〜711)に四十歳ぐらいで妻子を棄てて城陽山に隠れ棲んでしまった。

その後、

時負薪売於市、担上常掛一花瓢、携曲竹杖。

時に薪を負いて市に売り、担ぎ上げて常に一花瓢を掛け、曲竹杖を携う。

ときおり、町の市場に薪木を売りに下りてきたが、いつも花柄の瓢箪を担ぎ、先の曲がった竹の杖をひきずっていた。

毎酔吟、騰騰以帰。

つねに酔いて吟じ、騰騰として以て帰る。

帰りがけには毎回酒に酔って、きもちよさそうに山中に引き上げていくのである。

その歌に曰く、

負薪朝出売、 薪を負いて朝たに出でて売り、

沽酒日西帰。 酒を沽(か)いて日の西なるに帰る。

借問家何処、 借問(しゃもん)す、家はいずれの処ぞ、

穿雲入翠微。 雲を穿ちて翠微に入る。

 たきぎを背負って、朝っぱらから売りに出て来た。

 酒を買って、日が西に傾いたので帰る。

ちょっとお聞きするが、おまえさんはどこに住んでいるんだね?

雲の中を通り抜けてはるかなみどりの山に入っていく。

興味を持った読書人が何度か宣平の庵を訪ねてみたが、いつも決まって、さっきまで誰かがいた気配はあるのだが、留守であったそうだ。

そんなことが三十年ぐらい続いたが、何年経っても顔色が変わらず、いつまでも四十代にしか見えなかったという。

やがて天宝年間(742〜756)に李白が訪問したときも会えず、その庵の壁に五言の律詩を書きつけていった(その詩については省略)そうだが、今となっては

其庵輒為野火所焼。莫知踪跡。

その庵すなわち野火の焼くところと為る。踪跡を知るなし。

その庵は山火事で焼けてしまったので、あとかたも無い。また、彼がどこに行ってしまったのか知る者もない。

さて、ところが―――

百年以上経った咸通二年(861)、許宣平の子孫・許明恕の家のまだ幼い下女が山中にキノコ類を採りに入った。

この下女が驚くほど多くのキノコを採って帰ってきて、許明恕に向かっていうには、

入山逢祖翁宣平。

山に入りて祖翁・宣平に逢えり。

「山の中でおまえの祖先の宣平じじいに会いまちたよ」

と。

じじいは自分は許明恕の祖先・許宣平であると名乗り、

爾帰、為我向明恕道我在此山中。

爾帰りて、我がために明恕に向かいて「我、この山中に在り」と道(い)え。

「おまえは帰って、明恕に向かって、「わしはこの山中にいる」と伝えてくれんかな」

と依頼したという。

そして

与爾一桃、即食之、不得将出山。山神惜此桃、且虎狼甚多也。

爾に一桃を与えん。即ちこれを食え、将(も)ちて山を出づるを得ず。山神この桃を惜しみ、かつ虎狼はなはだ多し。

「おまえにこの桃をやろう。ただしここですぐに食わねばならん。持ったまま山を下りることはできんぞ。山の神が持ち出すのをいやがるし、虎や狼がたくさんいて、これを狙っているからな」

と桃を一つくれた。

下女がこれを食うと、たいへん美味かった。そして、突然からだが軽くなったように感じた。

そのままたいへんな速さで山中を歩き、帰ってきたのである、という。

許明恕はその言を聞いて、

呼祖諱。

祖諱を呼べり。

「わがご先祖さまのお名前を口に出しおって!」

と怒り出し、(※チャイナでは人を本名で呼ぶことは主君か先生か父親にしかゆるされない、たいへん失礼なことであるとされていた)

取杖撃之。

杖を取りてこれを撃つ。

杖を手にして下女をぶん殴ったのだ。

ぼかん。

幼い女の子相手にはあり得ないような、かなりの打撃を喰らわせたので、下女は倒れた・・・のだが、

其婢随杖身起。

その婢、杖に随いて身起つ。

その下女は、杖の下からすぐに立ち上がった。

「なんと、これほど激しく打ち据えたというのに・・・」

下女は、驚く明恕に向かって「うっしっしっしっしっし・・・・・」と哄笑を浴びせ

不知所逝。

逝くところを知らず。

そのままどこかに行ってしまった。

明恕は呆然と立ち竦んでいたが、しばらくすると病床に臥し、帰らぬひととなってしまったそうだ。

なお、

後有人入山、見婢復童顔、遍身衣樹皮、行疾如飛、入深林不見。

後に人の入山する有るに、婢のまた童顔にして、遍身に樹皮を衣(き)るを見る。行くこと疾(はや)くして飛ぶがごとく、深林に入りて見えずなりぬ。

後に、この山に入ったひとが、この下女の姿を見た。下女はむかしのままの幼い顔をし、樹木の皮の服を身に着けていたが、すごいスピードで移動して、まるで飛ぶようであった。あっという間に森の奥に入っていき、二度とその姿を見ることはなかった。

という。

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明・還初道人「新鐫綉像列仙伝」より「許宣平」。還初道人は洪自誠先生のことです。「菜根譚」の著者ですがこんな本も書いてたんですね。

それにしてもこの下女は怪しいやつでちゅな。本当にニンゲンであったのかどうか。

許宣平はこんな人だったそうです。

 

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