まあおまえさんも生きているとは言い難く、ひととしては終わっているようなもんだがニャ。
なんと、今日もノーベル賞出る。
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「三十国春秋」なる書物によりますと、春秋時代、鄭の国・中牟(ちゅうぼう)の町(河南省にあったという)の令をしていた蘇韶というひとが亡くなったんだそうです。
その後、いとこの蘇節が道を歩いていると、
見韶乗馬昼日而行。
韶の馬に乗りて昼日に行くを見る。
真昼間に、蘇韶が馬に乗って行くのを見かけた。
まるで生きているようであったが、死者の着ける黒い頭巾をつけ、黄色い単衣の服を着ていたので、やはり死者であるらしい。
そこで、蘇節は蘇韶を呼び止めて、
問幽冥之事。
幽冥の事を問う。
「あの世はどんなふうになっているのかね」と訊ねてみた。
韶、振り向いて
「なんだ、誰かと思ったら蘇節ではないか」
と愛想よく答えて、曰く、
死者為鬼、倶行天地之中。在人間、而不与生者接。
死者は鬼(き)と為りて、ともに天地の中を行けり。人間(じんかん)に在るも生者と接せず。
「死んだ者は幽霊になって、ニンゲンとともに天の下、地の上にいるんだ。ニンゲンと同じ空間にいるけれど、生きたニンゲンとはぶつかったり触れ合ったりはしないんだ」
「へー」
顔回・卜商今見為修文郎。
顔回、卜商は今、見(げん)に修文郎と為れり。
「孔子のお弟子であった顔回と卜商(子夏のこと)は、いま現在、(死者の世界の)修文郎(文書の修正をする役人)になっておられるよ」
「ほー」
死之与生、略無有異。死虚生実、此有異爾。
死の生と、ほぼ異有る無し。死は虚にして生は実、これ異有るのみ。
「死んだあとと生きていたときは、ほとんど何にも違わないね。ただ、死んだ後は実体が無く、生きているときは実体があった。そこが違うだけなんだ」
言終而不見。
言終わりて見えずなりぬ。
そう言い終わったところで、ふい、と見えなくなってしまった。
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「蒙求」巻上に「蘇韶鬼霊」(蘇韶の幽霊)という題で収められて、有名になったお話でございます。まるで「見て来た」ように死後の世界のことを語ってくれる貴重な記録でございますなあ。
この話なんか、ニュートリノとかヒッグス粒子とかの概念を用いて説明できないものか、ずうっと期待しているのですが、なかなかそうはいかないようなのでございます。