「どこかに逃げるゾー」「ブー」「ニャー」
先ほど、つらい昼間を終えてナイター見ていたら、携帯にまた仕事の増えた報せがきた。月曜日までには山中に隠棲すると決めているのでいいのですが、そうでなければ絶望して○んでしまうところでした。
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昨日の続きです。
王績というひとは字は無功といい、山西・龍門のひと、隋代の名高い儒者、文中子・王通の弟である。すでに少年時代、長安に遊学した際に、面会した隋の重臣たちがその英発で機敏なのをほめて、
神仙童子
とあだ名したという。
隋の末に仕官したが
不楽在朝、辞疾。
朝に在るを楽しまず、疾をもって辞す。
お役所にいるのがイヤで、病気だといって辞職してしまった。
その後、また揚州の六合県の丞を授けられたが、
時天下亦乱、遂託病風、軽舟夜遁。歎曰、網羅在天、吾将安之。
時に天下また乱れ、遂に病風に託し軽舟にして夜遁(のが)る。歎きて曰く、「網羅天に在り、吾まさにいずくにか之(ゆ)かん」と。
そのころ、天下はまた乱れ始めていた(隋末の乱世)ので、とうとう風気を病んだと称して、小舟に乗って夜逃げしてしまったのだった。そして歎いて言うには、「天の網がわたしを捕らえていようとしている。いったいどこに逃れればいいのか」と。
結局、郷里に帰った。
唐の世に入ると、唐朝廷から皇帝の顧問官に当たる「待詔」の職に任命された。
このとき、弟の王静が問いて曰く、
「待詔の職は楽しいものですかね」
答えて曰く、
待詔俸薄、況蕭瑟。但良醞三升、差可恋耳。
待詔は俸薄く、いわんや蕭瑟たるをや。ただ良醞三升のやや恋すべきのみ。
「待詔は給料が安いし、うらぶれたものだよ。ただし、毎日三升、いい酒が支給されるから、そこが魅力だな」
と。
これをきいて上司の江国公は
三升良醞、未足以絆王先生。
三升の良醞もいまだ以て王先生を絆(つな)ぐに足らず。
「毎日三升のいい酒も、いずれ王先生をつなぎとめておくことはできなくなるだろう」
と言いまして、
特判日給一斗。
特に判じて日に一斗を給す。
特別に決定して、王績には毎日三升の三倍強にあたる一斗を支給することにした。
このため、ひとびとから
斗酒学士
と呼ばれたのである。
それでも、官にあること数年で、病気を理由に退職してしまった。
引退後は、仲長子光という隠者と親しくまじわり、近くに庵を結びあって毎日酒を酌みあっていた。
使用人が数人いたので、彼らにキビを植えさせて、春と秋に採集したキビを醸して酒を造らせ、あひるやカモを飼い、薬草を採取したりという生活であった。
以周易、荘、老置牀頭、無他用心也。自号東皐子。
周易、荘、老を以て牀頭に置き、他に用心する無し。自ら「東皐子」と号す。
「周易」「荘子」「老子」の書物をベッドの頭のところにいつも置いていたが、それ以外には何事にも無頓着であった。このころ自ら「東の沢の先生」と名乗った。
知事が面会を求めてきたが、一度も会うことはなく、
好飲酒、能尽五斗、自著五斗先生伝。
飲酒を好み、よく五斗を尽くし、自ら「五斗先生伝」を著す。
飲酒が好きで、五斗を飲み尽くすことができたので、自ら「五斗先生の物語」という自伝とも小説ともつかぬ文章を書いた。
けだしこれは陶淵明の「五柳先生伝」のひそみに倣ったのであろう。
ちなみに当時の一斗は6リットルぐらい、ということですから、現代日本の三升(5.4リットル)強程度。五斗で30リットルで、現代日本の一斗樽1樽半程度。なんとかなる・・・ひともいるカモしれませんね。
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元・辛文房「唐才子伝」巻一より。隋帝国は滅びるだろうからイヤなのかな、と思ったら、唐帝国になってからもイヤなようで、要するに「シゴトがイヤ」だったのでは?