平成27年8月28日(金)  目次へ  前回に戻る

「どこかに逃げるゾー」「ブー」「ニャー」

先ほど、つらい昼間を終えてナイター見ていたら、携帯にまた仕事の増えた報せがきた。月曜日までには山中に隠棲すると決めているのでいいのですが、そうでなければ絶望して○んでしまうところでした。

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昨日の続きです。

王績というひとは字は無功といい、山西・龍門のひと、隋代の名高い儒者、文中子・王通の弟である。すでに少年時代、長安に遊学した際に、面会した隋の重臣たちがその英発で機敏なのをほめて、

神仙童子

とあだ名したという。

隋の末に仕官したが

不楽在朝、辞疾。

朝に在るを楽しまず、疾をもって辞す。

お役所にいるのがイヤで、病気だといって辞職してしまった。

その後、また揚州の六合県の丞を授けられたが、

時天下亦乱、遂託病風、軽舟夜遁。歎曰、網羅在天、吾将安之。

時に天下また乱れ、遂に病風に託し軽舟にして夜遁(のが)る。歎きて曰く、「網羅天に在り、吾まさにいずくにか之(ゆ)かん」と。

そのころ、天下はまた乱れ始めていた(隋末の乱世)ので、とうとう風気を病んだと称して、小舟に乗って夜逃げしてしまったのだった。そして歎いて言うには、「天の網がわたしを捕らえていようとしている。いったいどこに逃れればいいのか」と。

結局、郷里に帰った。

唐の世に入ると、唐朝廷から皇帝の顧問官に当たる「待詔」の職に任命された。

このとき、弟の王静が問いて曰く、

「待詔の職は楽しいものですかね」

答えて曰く、

待詔俸薄、況蕭瑟。但良醞三升、差可恋耳。

待詔は俸薄く、いわんや蕭瑟たるをや。ただ良醞三升のやや恋すべきのみ。

「待詔は給料が安いし、うらぶれたものだよ。ただし、毎日三升、いい酒が支給されるから、そこが魅力だな」

と。

これをきいて上司の江国公は

三升良醞、未足以絆王先生。

三升の良醞もいまだ以て王先生を絆(つな)ぐに足らず。

「毎日三升のいい酒も、いずれ王先生をつなぎとめておくことはできなくなるだろう」

と言いまして、

特判日給一斗。

特に判じて日に一斗を給す。

特別に決定して、王績には毎日三升の三倍強にあたる一斗を支給することにした。

このため、ひとびとから

斗酒学士

と呼ばれたのである。

それでも、官にあること数年で、病気を理由に退職してしまった。

引退後は、仲長子光という隠者と親しくまじわり、近くに庵を結びあって毎日酒を酌みあっていた。

使用人が数人いたので、彼らにキビを植えさせて、春と秋に採集したキビを醸して酒を造らせ、あひるやカモを飼い、薬草を採取したりという生活であった。

以周易、荘、老置牀頭、無他用心也。自号東皐子。

周易、荘、老を以て牀頭に置き、他に用心する無し。自ら「東皐子」と号す。

「周易」「荘子」「老子」の書物をベッドの頭のところにいつも置いていたが、それ以外には何事にも無頓着であった。このころ自ら「東の沢の先生」と名乗った。

知事が面会を求めてきたが、一度も会うことはなく、

好飲酒、能尽五斗、自著五斗先生伝。

飲酒を好み、よく五斗を尽くし、自ら「五斗先生伝」を著す。

飲酒が好きで、五斗を飲み尽くすことができたので、自ら「五斗先生の物語」という自伝とも小説ともつかぬ文章を書いた。

けだしこれは陶淵明の「五柳先生伝」のひそみに倣ったのであろう。

ちなみに当時の一斗は6リットルぐらい、ということですから、現代日本の三升(5.4リットル)強程度。五斗で30リットルで、現代日本の一斗樽1樽半程度。なんとかなる・・・ひともいるカモしれませんね。

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元・辛文房「唐才子伝」巻一より。隋帝国は滅びるだろうからイヤなのかな、と思ったら、唐帝国になってからもイヤなようで、要するに「シゴトがイヤ」だったのでは?

 

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