平成27年7月17日(金)  目次へ  前回に戻る

暑中お見舞い申し上げますさー。ゆいゆい。

台風が過ぎていきましたのでまた明日からは真夏になるですわ。真夏になると、沖縄の空と海を思い出すぜ。

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じじいの言うことには、むかしむかしのことなのだそうでございますが、西原間切(にしはら・まじり)の嘉手苅(かでかる)の村(現:西原町嘉手苅)に、

有一人名叫五郎。

一人有り、名を五郎と叫(よ)ばる。

「五郎」とよばれる男がおったのさあ。

この男、

其勇力過人常好歌絃及相撲(俗戯)。

その勇力、人に過ぎて常に歌絃及び相撲(俗戯なり)を好む。

勇み肌と腕力は普通のひとよりまさり、どんな時も、三線(さんしん)の弾き語りと沖縄ずもう(これは民間のあそびである)が大好きであった。

「沖縄ずもう」(ウチナジマ)は現在本土で主流となっている「江戸ずもう」と違って、帯と相撲道着を着用し、相手の背中を地面に着けしめてはじめて勝ちとなる(柔道にも似ている)格闘技である。詳しくは「シマー」「沖縄角力」などで検索、検索ぅ。

当祭遊之日、徧過遊場、作相撲戯無能敵之者、而其名大聞。

祭遊の日に当たりては、徧(ひと)えに遊場に過(いた)り、相撲戯を作すによくこれに敵する者無く、その名大いに聞こゆ。

お祭りの日になると、あちこちのお祭り広場にやってきて、すもうをとるのであるが、どこにも彼にかなう者はおらず、その名は大いに喧伝されたものであった。

「遊場」はウチナーでいう「アシビナー」のことですね。

このように、五郎は有名な「お祭り男」だったんです。

やがて月日は流れ、五郎も死にました。嘉手苅の「御茶多理墓」(おちゃたいばか)というところに葬られた。

しかし

其気不散。

その気、散ぜず。

彼の生体残存エネルギー(「気」)は、すぐには散らばって海と大地に還ってしまわなかった。

それ以降、御茶多理墓のあたりでは、

或有叫聚群鬼之声、或有作相撲之喊、或有唱歌弾絃之音。

或いは叫びて群鬼を聚(あつ)むるの声有り、或いは相撲を作すの喊(さけ)び有り、或いは歌を唱い絃を弾ずるの音有り。

時には霊鬼どもに集合をかける叫び声が聞こえたり、時にはすもうをとる雄叫びが聞こえたり、時には歌をうたい、三線を弾奏する音が聞こえたりするようになったのである。

「あれは五郎さまがやっていなさるのだよ」

従此人号御茶多理五郎。

これより人号して「御茶多理五郎」とす。

そこで、ひとびとは彼のことを「おちゃたい(の墓の)五郎さま」と呼ぶようになった。

日暮天陰、則人不敢過于其墓辺、歴年久而乃止。

日暮れ天陰(くも)れば、人あえてその墓辺を過ぎざるも、歴年久しくしてすなわち止みぬ。

夕暮れどきとか曇って暗い日など、ひとびとの中に、あえてその墓のあたりに近づこうとする者はいなかったのであったが、その後長い月日が過ぎて、ようやく不思議な物音が聞こえることは無くなった。

いろんな怨みつらみも久しい年月が流れれば消えうせていくものなのでございます。

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鄭秉哲等編「遺老説伝」巻三より。「五郎」(ごろう)=「御霊」(ごりょう)=怨霊なり、という柳田國男先生の説明そのまま、の民間伝承でございました。

沖縄に帰りたいなあ・・・というキモチも二年を経てそろそろ弱り失せてまいりました。実は「また来いよ」と言ってくれるような友だちがいるわけでも無し。どこに行っても孤独なんです。東京で、が一番孤独だが。もう奄美でガマンしておいてやるか。

 

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