このシブい柿がおにぎりに変化したらいいのになあ・・・
なんでも思ったとおりになるといいですよね。
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夜摩天に雲のごとく集まった菩薩たち。その中の智林菩薩の言うことには、
猶如随意珠、能現無量色、 なおし随意の珠の、よく無量の色を現ずるも、
此色非真色、諸仏亦如是。 この色の真色に非ざるが如く、諸仏もまたかくの如し。
願いごとが何でも適うという「マニの宝珠」は、置かれた場所に応じてあらゆる色を発現するのであるが、
それらの色はいずれも宝珠の本来の色ではない。もろもろのみほとけもまたこのようである。
「マニの宝珠」欲しいです。もう何十年か探しているのだが、まだ見つからない。今まで何度か「見つけた」と思ったが全部ニセモノでした。でもそろそろ見つかりますよ(と信じていますよ)。でも見つかってもジャイアンに横取りされるといけないので「見つかった」とは言いませんので、みなさんおいらが「見つけた」と言わないからといって「マニ宝珠なんて無いんだ」などと早合点しないように。うっしっし。
如虚空清浄、非色不可見、 虚空は清浄にして色に非ざれば、見るべからずして
能現一切色、其性不可見。 よく一切色を現ずるも、その性は見るべからざるが如きなり。
虚空はきれいさっぱりとして、存在する「色」(シキ。「物質」の意)ではないから視力の対象とはならないのだが、
光線の当たり具合によっていろんな色あいになる。しかし、その本来の性質は視力の対象とはならないのだ。
なんでいんどじんは↑こんな難しい言い回しをするのでしょうね。
如是大智人、示現無量色、 是くの如く大智の人は、無量の色を示現するも、
非識之所識、一切莫能覩。 識の識るところに非ずして、一切よく覩(み)るなきなり。
同じように、大いなる知者(であるみほとけ)も、あらゆる色を発現なさるのである。
しかし(みほとけの本質は)、感覚や意識の対象とはならない。まったく感知することができないのである。
↑「如是」(同じように)と言っているのですが、上の「虚空」の比喩とどこが「同じ」なのか悩みます。百回ぐらい繰り返し読めばわかるかも。
とはいえ、
雖聞如来声、音声非如来、 如来の声を聞くといえども、音声は如来に非ず、
離声復不知、如来等正覚。 声を離れてはまた、如来の等正覚(とうしょうがく)を知らず。
みほとけのおコトバをお聞きしたとしても、そのおコトバはみほとけそのものではない。
しかしながら、おコトバを抜きにしては、みほとけのまことの悟りの内容を知ることはできないのだ。
やっぱり本質から離れた表面的に感知できるコトバなどをよくよく知らなければならない。
このことは甚だ深く妙なることでありますので、よくよく分別して知ることができましたら、これ以上ない教えをさらに飾り立てるような境地に達し、種々の虚妄を離れることができますぞ。
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みなさんもがんばって分別して知ってくださいね。そうすればみなさんも「マニの宝珠」見つけられるかも。
東晋・仏駄跋陀羅訳「華厳経」夜摩天宮菩薩説偈品第十六より。