平成27年7月13日(月)  目次へ  前回に戻る

「きみらももう少ししっかりしてほしいでワン」「はあ」

今日はシゴトがツラそうだったので木偶人形を行かせた。案の定ツラそうな顔をして帰ってきましたわい。「しっかりしろ」と叱りつけておいたが、ほんとそこらに置いておくしか能のないやつです。

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清の時代のことです。

晩年に太子少師となられた姚廣孝先生が私財を投じて、巨大な鐘を鋳造した。

これは先生の篤い仏教信仰によるもので、

円広可数間、屋中能容数百人。

円広数間ばかり、屋中よく数百人を容る。

鐘の口の直径は数間(5メートルぐらい)もあり、この鐘のために造られた鐘つき堂には、数百人のひとが一度に入れた。

その鐘には

刻法華諸経於上。

法華諸経を上に刻む。

法華経等のお経を表面に刻んであった。

その文字は楷書でじつに巧みに彫られており、ほかに比べるものが無いほどである。

墨氏文人之遊其地者、毎流連把玩不忍釈。真国宝也。

墨氏文人のその地に遊ぶ者、つねに流連して把玩し釈(お)くに忍びず。真に国宝なり。

そのあたりまでやってきた文化人たちは、みな予定の滞在を延ばして、この鐘をもてあそんでなかなか離れることができなくなってしまった。ほんとうの國の宝というべきものである。

しかしながら大きすぎたので、

其鐘不能高懸眠於地。在都城外一寺中。

その鐘、高懸するあたわず、地に眠る。都城外の一寺中に在り。

その鐘は吊るすことができず、地面に置かれたままであった。今も北京の城外のお寺の中に安置されている。

ためにその音を聞いたひとはいないのであった。

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清・鄭仲夔「冷賞」巻八より。

この鐘も表面に刻まれた文字が素晴らしかったので評価されるが、楽器としては「置いておくしか能が無い」やつだったのですなあ。

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★ところで、昨日の「飛蘭の鄭大木」ですが、「飛蘭島」(ひらんとう)あるいは「飛鸞島」は、「ひらど」=平戸の漢名。鄭大木の「大木」は国姓爺・鄭成功の字である。彼は明末に五島福江を根拠とした海賊・鄭芝竜と平戸の女性の間に生まれ、父の清朝帰順後も、儒服を焼いて軍服に着替え、明朝回復のために厦門や台湾に拠って抵抗戦(いわゆる「国姓爺合戦」)を繰り広げたのであった。

 

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