平成27年5月10日(日)  目次へ  前回に戻る

「そのうち音楽で治まる世が来るであろう」と夢見つつ・・・

さあいよいよ明日から平日の始まりだよー。

・・・・・・・・・・・・・・・・

前漢の終わりごろ、陳留・東昏に劉昆というひとがった。字を桓公といい、先祖は皇族であったという。

平帝(在位前1〜6)のころに長安で易と琴を学び、王莽の新朝のころ(9〜23)には五百人の弟子がいた。王莽は劉昆が五百人を率いて叛乱を起こすのを恐れて彼を捕らえ、牢につないだが、その間に新が滅び、劉昆は釈放されて、天下の乱れているのを避けて河南の負犢山に隠れた。

後漢起こり、光武帝の建武五年(29)に至って召しだされて江陵の令となった。

時県連年火災。昆輙向火叩頭、多降雨止風。

時に県に連年火災あり。昆すなわち火に向かいて叩頭するに、多く雨を降らせて風を止どむ。

そのころ、江陵県では毎年火災が起こったが、劉昆が燃え盛る火に対して叩頭の礼を行うと、たいてい雨が降り、風が逆になって火の広がるのを防いだのであった。

けだしその徳が天候にも通じていたのである。

その後、弘農の太守に転任した。

弘農ではこれより以前から、

駅道多虎災、行旅不通。

駅道に虎災多く、行旅通ぜず。

街道筋にトラの被害が多く、旅びとが通ることができなかった。

しかし、

昆為政三年、仁化大行、虎皆負子渡河。

昆の政を為すこと三年、仁化大いに行われ、虎みな子を負いて河を渡る。

劉昆が太守となってから三年もすると、その仁政が大いに行われ、トラたちはみな子トラを背負って、黄河の向こう岸に引っ越して行った。

けだし、その徳に猛獣も感じたのである。

光武帝、これらを聞いて特別に感じるところあり、建武二十二年(46)都に召し返して、詔して問うに、

「おまえは先には叩頭して火を止め、後にはトラを移動させた。

行何徳政而致是事。

何の徳政を行いてこのことを致すや。

いったいどういうスバラシイ政治を行って、これらのことを惹き起こしたのかね?」

と。

劉昆、一瞬困惑した表情を見せたが、やがて答えて曰く、

偶然耳。

偶然のみ。

「ただの偶然でございます」

「ぷぷっ」

左右皆笑其質訥。

左右みなその質訥を笑う。

近臣らみな、昆の質実で口下手なのを笑った。

しかし

帝歎曰、此乃長者之言也。

帝、歎じて曰く、「これすなわち長者の言なり」と。

帝は感心して仰せになった。

「これは大賢者で無ければ言えないコトバじゃわい」

そして、ただちに史官に命じてこの語を木簡に記させ、皇太子をはじめ諸王子、諸侯らに配布させた、という。

建武三十年、老を以て骸骨を乞うた(←辞職すること)が、帝はわざわざ洛陽城内に住宅を賜い、終身にわたって年千石の禄を賜った。

・・・・・・・・・・・・

「後漢書」巻109上(儒林伝)「劉昆伝」より。(「蒙求」巻下「劉昆反火」章にも所収)

ああ、叩頭するだけで仕事の炎がこれ以上広がらず、またトラのようなひとたちがお目こぼしくださってどこか別のところに行ってしまう・・・そんなことが「偶然」に起こらないものか。と祈りつつ、日曜日の更新を終えまちゅる。

 

表紙へ 次へ