「まだキザシに気がつかないのかにゃ?」
かなり咳がひどくなってきました。げほん。げほん。咳止めもらってきたが眠くなるというので夜まではガマンです。
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漢の高祖・劉邦の異母弟・劉交は漢の建国の後、楚王に封じられます(「元王」と諡号さる)が、文学を好み、秦の坑儒(儒者穴埋め)を免れた魯の申公、白生、穆生という三人の詩経学者を重用していた。
さて。
一杯、一杯、また一杯。
と呑んで「ぷぴー」と酔っぱらう。お酒はすばらしいものです。
が、これを飲めないひともいにしえよりおられました。この三人の学者の中の穆生もそうであった。
そこで元王は
置酒常為穆生設醴。
酒を置くに常に穆生のために醴を設く。
酒宴を開くときには、つねに穆生のために特別に「醴」を用意した。
「醴」とは、唐の顔師古の注にいう、
甘酒也。少麹多米、一宿而孰不済之。
甘酒なり。少麹にして多米、一宿にして孰(熟)しこれを済せず。
甘みのある酒である。少量の酒酵母と多めの飯を混ぜ、一晩発酵させただけで、濾してもいないもの。
だそうで、アルコール度のきわめて低い、甘酒の一種であった。
元王が亡くなり、子の劉戌が位を継いだ。
戌も即位当初は穆生のために「醴」を用意していた。
やがて
後忘設焉。
後、設くるを忘れたり。
その後、宴会に「醴」を用意しなくなってしまった。
穆生退曰、可以逝矣。醴酒不設、王之意怠、不去楚人将鉗我於市。
穆生退きて曰く、「以て逝くべし。醴酒設けられず、王の意怠す。去らざれば楚ひとまさに我を市に鉗せん」。
穆生は退出してから申公と白生に言った。
「そろそろ潮時でちゅ。去った方がよさそうでちゅよ。甘酒を用意してくれませんでちた。王さまはいよいよやる気なくなってきたのでちょう。去らないといずれ楚のやつらに街中で縛り首にされてちまいまちゅよ」
「鉗」とは「鉄を以て頸を束ぬ」ることである、という。鉄環で首を絞める刑である。
そうして病と称して家に籠ってしまった。
申公と白生は、
「王の失政はまだ小さい。これを輔佐して正道に戻すのがおいらたち賢者のシゴトではないのかちら」
と穆生を復帰させようとしたが、
易称、知幾其神乎。
「易」に称す、「幾(きざし)に知るはそれ神か」と。
「易経」(繫辞下伝)には、「兆しを見つけて先のことを予想する、これこそおごそかな精神のはたらきである」と言っているではないでちゅか。
と答えて、隠棲してしまった。
申公と白生はそのまま劉戌に仕えていたが、後に戌が東海王と通謀して謀叛をはかるに至り、
「いけまちぇん」「なりまちぇぬぞ」
と
二人諌。
二人諌む。
二人はそれを止めるように強く諫言したのであった。
王はしかし、
不聴、胥靡之。
聴かず、これを胥靡す。
「胥」(しょ)は「相」のこと、「靡」(び)は「随」と同じ。「相随」というのは、二人を鎖や縄などで繋ぐ刑をいう。
「うるちゃーい!」
諫言を聞かず、それだけでなく、怒って二人を鎖でつなぐ刑に処した。
そうして、
衣之褚衣、使杵臼碓舂於市。
これに褚衣を衣せ、杵臼をして市に碓舂せしむ。
罪人に着せる赤い衣を着せて、街中でさらし者とし、杵と臼を使って穀物を搗くシゴトに従事させた。
知識人として、ありえないほどの屈辱であった。
そのときになって人々は、穆生に先見の明があったことを知ったのである。
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「漢書」巻三十六「楚元王伝」より。―――ということで、そろそろ「幾」を見るときかもよ。
では・・・おっと、忘れて寝てしまうところでした。今日の講話に出てまいりました「楚元設醴」(楚の元(王)、醴を設く)というのは、賢者を厚く遇する、という意味の故事成語となっております。なので覚えておきましょう。きっと試験に出るよ。いつの日か。