「眼光は無いニャア」
もう土曜日。・・・ということは明後日はもう月曜日だ。
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「迫りくる月曜日の恐怖に、本を読んでもなかなか集中できません」
と文句を言っていると、
「そんなことではいかんぞ」
と明末の名儒・石斎先生・黄道周がおっしゃっておられます。
先生曰く、
―――諸君、よろしいか。
真読書人、目光常出紙背、往復循環、都有放光所在。
真の読書人は、目光常に紙背に出で、往復循環してすべて所在に光を放つ有り。
ほんとうの読書人であれば、目から放つ光がつねに紙の裏側まで透けて出ていなければならん。いっぺん読んで読み返し、ぐるっと読み直す、そうすると視線の行ったあらゆる場所に、光が注がれることになる(ぐらいのすごい集中力が必要である。)
これはムリですよね。目から涙や★は出るけど、光なんか出ませんよ。
―――でも即座に要領よく書いてあることを知ろう、と思ったらまたそれは間違いじゃ。
若初入手、便求要約、如行道人、不覩宮墻、妄意室中。是亦穿窬之類也。
もし初めて入手するに、すなわち要約を求むることあれば、行道の人の、宮墻を覩ずして妄りに室中を意(おも)うが如し。これまた穿窬(せんゆ)の類なり。
もしもはじめて手に入れたばかりの本を読むときに、すぐにその要点を抑えて理解しようと考えてはあきまへん。それは、道を行くひとが、他人の家の建物や塀を目にして、その向こうの室内のことを想像してニヤニヤしているようなもので、覗き見の一種である。
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読書は飽きてきますが、覗き見ならしたくなってくるから不思議ですね。「榕壇問業」より。
黄石斎先生は萬暦十三年(1585)福建の生まれ、天啓元年(1621)の進士、崇禎十五年(1642)病と称して帰郷、以降著作に勤しんでいたが、翌々崇禎十七年に北京が陥落すると南明政権に投じ、千余人という門人とともにゲリラ戦に参加したが敗れて囚われた。清朝は帰服を促したが応じず、南明の隆武二年(1464)、南京東嘉門外にて刑死した。清朝政府はその忠節を賞して、忠烈と諡号を送っている。
陽明学のひとです。
○足先存地、魚先存于水、君先存百姓。古今以来不可易也。
足まず地に存し、魚はまず水に存し、君はまず百姓に存す。古今以来易(か)うるべからざるなり。
足は地面が無ければ立っていられない。魚は水中が無ければ生きていけない。君主は人民がいなければ存在しえない。これらは古代から変わることのない大原則である。
○宇宙聖賢総是善念做起。這个善念在天為明命、則曰不已。在人為至誠、則曰無息。無息不已、正是恒処。
宇宙の聖賢すべてこれ善念の做起(さくき)なり。この善念は天に在りては明命と為り、すなわち「已まず」と曰う。人に在りては至誠と為り、すなわち「息(や)む無し」と曰う。「息む無く、已まず」なれば正にこれ恒処なり。
古来の世界中の聖人・賢者は、すべて善の思念が作り出したものである。この善の思念、天からニンゲン世界に対する「明白な命令」となるが、それは「中断しない」ということである。ニンゲン世界では「誠実そのもの」となるが、それは「継続する」ということである。「継続し、中断しない」というのは常にあるもの、ということである。
などとも言っておられます。