ゆったり茶でも飲んで思い出すか・・・。
昨日はオモテのしごとのプレッシャーがハンパでなく、更新できませんでしたのじゃ。なんとか生きて帰ってきて二日ぶりの更新をします。・・・そういえば昨日、畏友SHさんからのメールで何か知らせが来ていたけど、何だったけかな。
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・・・閑話休題(それはさておき)。
明の正統十三年(1448)七月のこと、黄河が山東・東昌の地で決壊!
洪水が村々に押し寄せた。
水中兀兀有声、聞数十里。
水中に兀兀と声有り、数十里に聞こゆ。
その洪水の中から「がーん、がーん」と10キロ内外※にも聞えるような大きな音がした。
※一チャイナ里=600メートルで計算してみまちた。
「不思議な音がいたしまする」 ・・・@
という知らせに所轄の危県知事・鄭鐸が部下を引き連れて調査に出た。
往観乃二大鐘相撃而鳴。
往きて観るにすなわち二大鐘相撃ちて鳴る。
行って見たところ、なんと二つの巨大な鐘が水中でぶつかりあって鳴っているのであった。
知事以下、
「これは異常なできごとじゃ」
と驚いた。
そこで犠牲を捧げてお祀りをしたところ、 ・・・A
効果覿面!
一つの鐘は流れ去って行った。
しかし、
其一住而不流、挽出。
その一は住(とど)まりて流れず、挽きて出だす。
もう一つはそこに止まったままで流れて行かないので、綱をつけて地上に引きだした。
表面を調べてみると、
「承安四年造」
と刻まれていた。(承安四年は金の章宗のときの年号で、西暦では1199年に該たりまちゅ。)
これを文殊寺という寺に懸けて、撞木を新造して撞いた。すると、
晨昏聞四十里。
晨昏に四十里に聞こゆ。
朝、晩の鐘の音は20キロ以上遠くにまで聞こえわたったのである。
洪水に家族や住居、財産などを奪われたひとびとは、この鐘の音を励みにして、復興に取り組んだのであった。
後、正徳辛未年(1511)、流賊が危県に攻め入ったことがあったが、このとき、誰も撞くひとも無しにこの鐘が鳴りはじめ、
声聞百里。
声、百里に聞こゆ。
半径60キロの範囲にまでその音が響いた。
ために異常に気づいて避難し、賊難を免れたひとも多く、
以是知其神異。
ここを以てその神異なるを知る。
これによって、この鐘が不思議な力を持つことがひとびとに知れ渡った。
・・・のだそうでございまちゅ。
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明・施顕卿「奇聞類紀摘抄」巻二より(「危県志」に出るという)。
ゲンダイのすぐれた知恵からみると、
@
「音」より黄河の決壊に対応しろよ。
A
「お祀り」するより別にやることあるだろう。
という気がしますが、おかげで不思議な鐘が発見されて、復興が進んだということです。
・・・そうだ、「復興」でやっと思い出しました。SHさんからのお知らせは、岡本全勝さんが「復興庁」というお役所のエラいひとになる、ということでした。復興の割れ鐘になるんかな。いろいろお世話になっているのでほんとうは執務室の引越しのお手伝いでもしなければいかんのですが、借りた本あと二冊読んでないので顔出しができませんので残念だなあ。