(←座禅なんかしてなくても無念無想(何も考えてない))
月曜日終わり。しかし平日があと四日も。泥ニンゲンになって溶けてしまいたい・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある僧、蘊(うん)禅師に問うた。
如何是禅。
如何ぞ、これ禅。
―――禅とはどういうものなんでちゅか。
師はおっしゃった。
石上蓮華、火裡泉。
石の上の蓮華、火の裡(うち)の泉なり。
―――石の上に咲いた蓮華じゃ。火の中に湧いた泉じゃ。
(というぐらい滅多に出会えない、有り難いもの。いや、実はわしも出会ったことないんじゃ)
では、
如何是道。
如何ぞ、これ道。
―――道とはどういうものなんでちゅか。
師はおっしゃった。
楞伽峰頂、一茎草。
楞伽峰(ろうが・ほう)頂、一茎の草。
「楞伽」はサンスクリットの「ランカ」の音訳。
「大唐西域記」巻十一「師子国」にいう、
国東南隅有稜(※)伽山。厳谷幽峻、神鬼遊舎。在昔如来於此説稜伽経。旧曰楞伽経、訛也。
国の東南隅に稜伽山有り。厳谷幽峻にして神鬼遊び舎(やど)る。在昔、如来ここにおいて「稜伽経」を説けり。旧に「楞伽経」と曰うは訛なり。
※ほんとは「禾」ヘンを「食」ヘンに変えた字。「ロウ」と読む。
(師子国の)東南の隅にはランカ山がある。岩壁そびえ谷深く、人跡稀にして嶮しく、神仙や精霊がふらりと来てとどまっていく場所である。おおむかし、この山で如来さまが「ランカ経」をお説きになった場所である。以前の訳では「楞伽」という字を当てていたが、これは間違っている。
と唐三蔵法師・玄奘とその協力者たちが言っております。
「師子国」は後の「セイロン」。現在の「スリランカ」。なお、このランカ山には宝石が多いんだそうです。(ちなみに「諸橋大漢和辞典」をひっくり返したら、湖北や湖南にも「楞伽峰」という山があるそうです。が、ここでは関係無さそう)
閑話休題。
「道」とはどういうものでちゅか?
―――ランカ山の頂上に生えている、一本の草じゃ。
(そんなもの手に入るはずがないし、わしも見たことない)
禅道相去幾何。
禅・道の相去ること幾何(いくばく)ぞ。
―――禅と道とは、どれぐらい離れているものでちゅかね。(禅という方法でどれほど修行したら道という目的にたどりつけまちゅかね)
師はおっしゃった。
泥人落水、木人撈。
泥人の水に落ち、木人の撈(すく)う。
泥ニンゲンが水に落ちた(。溶けてしまって跡形もない)。それを(水に潜れないはずの)木偶ニンゲンが水中から拾いだそうとする
ようなものかなあ。(あんまり禅に期待してもダメだと思うよ)
―――わーい、泥ニンゲンと木偶ニンゲン、おもちろいー。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「五燈会元」巻十三より。
泥人・木人の比喩が出色ですね。貴殿はどちらかな?
蘊禅師は俗姓を韓といい、河南のひとという。江蘇・常州の正勤院に住持し、五代・後晋の天福年間(936〜943)に帰寂(←僧侶が亡くなること)なされたという。