アタマずきずき〜
また頭痛が来た。頭痛薬多めに飲む。くらくらする。なんかまぼろしが・・・
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三国・魏の最後の年である咸熙二年(265)のこと、襄武県に
大人見。長三丈余、跡三尺二寸。
大人見(あら)わる。長三丈余り、跡三尺二寸あり。
巨人が出現なされた。背丈は6メートルぐらい、足跡の長さが96センチあった。
白巾、着黄単衣黄巾、柱杖。
白巾にして黄の単衣と黄巾を着け、柱杖す。
白い頭巾に黄色の服に黄色のひれを着け、杖をついていた。
その年のうちに魏は禅譲して、晋の武帝が即位したのである。
巨人の出現は、以前にも例があった。
「史記」秦始皇帝本紀に拠れば、始皇帝の二十六年(前221)、
有大人長五丈、足跡六尺。皆夷狄服、凡十二人。
大人の長五丈、足跡六尺なる有り。みな夷狄服、およそ十二人なり。
背の丈10メートル、足跡1.2メートルという巨人が現れた。みな蛮族風の衣装で、すべてで十二人いた。
これは、
天戒、若曰大為夷狄之行、将受其禍。
天戒めて、大いに夷狄の行を為せば、まさにその禍いを受けんというがごとし。
天が、「蛮族のような行いばかりをしていると、やがてその報いを受けることになるであろう」と戒めたのではないだろうか。
ところが始皇帝はこれを吉兆と解し、
銷天下兵器作金人十二像之。自言賢聖、燔詩書坑儒士。
天下の兵器を銷(とか)して金人十二を作りてこれに像(かたど)る。自ら賢聖なりと言い、詩書を燔(や)き儒士を坑(あなう)めす。
天下の兵器を集め熔かして、現われた巨人たちにかたどって金属人間を十二体作った。また、「自分は聖人賢者である」と宣言し、従来の権威であった詩経・書経の書物を焼き、儒者たちを生き埋めにしたのである。
いわゆる「焚書坑儒」の悪逆非道でございます。
しかし、巨人の出現は吉兆にあらず、
後十四年而秦亡。
後十四年にして秦亡ぶ。
そのあと十四年で秦は滅亡したのであった。
漢の京房が、
君暴乱疾有道、厥妖長狄入国。
君暴乱にして有道を疾(にく)まば、その妖は長狄入国す。
君主が乱暴で道有る者を憎悪するようであれば、その妖気は巨人の蛮族を国に導き入れることとなる。
と断言しているとおりである。(参考→○防風氏・長狄)
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唐・瞿曇悉達「開元占経」巻一百十三より。巨人の出現と君主の暴虐はタマゴとニワトリ?