平成27年1月30日(金)  目次へ  前回に戻る

にょらいのお慈悲でなんとかならんか

やっと金曜日。しかし金曜日になると、もうシアサッテは月曜日なんだなあ、とイヤになってまいります。「週末までがんばった」という自業で「来週がまた来る」という自得するんです。

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清の時代のことでございます。

蘇州の繆渙(びゅう・かん)はわしの古くからの友人であるが、その息子の喜官は当時

年十二、性頑劣。

年十二、性、頑劣なり。

数えで十二歳、たいへんな悪たれであった。

ある日、喜官はあろうことか、

与群児戯、溲于井中。

群児と戯れ、井中に溲す。

同じ悪たれガキどもをふざけて、みんなの使う大切な井戸に、しょんべんをしやがったのである!

それも彼が先頭を切ってしやがったというのだ。たいへんなバチあたりなことである。

その晩、喜官は熱にうなされた。

熱に浮かされて、

呼為井泉童子所控、府城隍批責二十板。

呼ばうに、「井泉童子の控するところと為り、府城隍の批責すること二十板なり」と。

「おいら、井泉童子さまに訴えられて、町の地主神さまに棒で二十回ぶたれまちゅ〜!」

と喚いたのであった。

旦起視之、両臀青矣。

旦に起きてこれを視るに、両臀青かりき。

朝になって目覚めたあとに確かめると、おしりに真っ青なあざができていた。

「ああ痛かった。でもこれで済めばいいのでちゅがね」

と言っていたが、それから三日後、またひどい熱を出した。

呼曰、井泉童子嫌城隍徇同郷情、而罪大罰小、故又控于司路神。

呼ばいて曰く、「井泉童子、城隍の同郷の情に徇(したが)い、罪大なるに罰小なるを嫌い、ゆえにまた司路神に控せり」と。

喚いて言うに、

「井泉童子さまが、町の地主神さまは氏子のおいらへの愛情に引かれて、おいらの罪が大きいのに小さな罰しか与えなかったというのを不満に思って、この地方をつかさどる地方神さまに控訴いたちまちた〜」

さらにうわごとを続ける。

神云、此児汚人食井、罪与蠱毒同科、応取其命。

神云うに、「この児、人の食らう井を汚す、罪は蠱毒と同科を与え、まさにその命を取るべし」と。

「地方神さまは裁決しておっしゃりますに、

『このガキはみんなの飲料水である井戸を汚しおったのじゃ。罪は他人を呪い殺そうとしたのと同じである。死刑に処すべし』

と。みなちゃん、ちゃようなら〜」

是夕遂卒。

この夕べついに卒せり。

この晩、とうとう死んでしまったのであった。

わたしは繆渙の家に悔みに来て、その顛末を知ったのである。これによって人は、井戸を汚すことの罪の大きさを知るべきであろう。

ところでわたしは気になって、繆の家人に訊ねたのであった。

「この町で城隍神(地主神)として祀られているのは、どなたですかな?」

家人たちは答えていう、

周范蓮さまでございます」

と。

ああ、そうであったか。

周范蓮はここ蘇州の人、雍正庚戌(1730)に特等の成績で科挙に合格し、ただちに翰林院に採用になられたというレジェンド級の秀才である。

その後、河南の某郡太守となったが、

正直慈祥、毎杖人不忍看、必以扇掩其面。

正直にして慈祥、人を杖するごとに看るに忍びず、必ず扇を以てその面を掩いたり。

まっすぐな御性格で優しく穏やか、ひとを杖で打つことを命じたあと、打たれているひとがかわいそうで、いつも扇で顔を隠して見ないようにしていた、というお方であったという。

彼の裁きであれば被告にきわめて甘かったであろうから、控訴されても致し方なかったであろう。

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清・袁枚「子不語」巻十七より。

毎日毎日つらい日々、どうせなら、こんなお優しいひとの命令で杖で打たれたいものでございますね。

 

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