平成26年12月11日(木)  目次へ  前回に戻る

腹いっぱい食うと原則として調子よくなる。

今日は岡本全勝さんとその仲間のひとたち?とちゃんこナベ食った。腹いっぱい食った。

そして、明日は休みます。

うっしっし。

これは調子よくなりますね。

調子に乗って、また昨日の難しいやつから引用。

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元・呉草廬先生曰く、

古今人言静字、所指不同、有深浅難易。

古今の人、「静」字を言うに、指すところ同じからず、深浅難易有り。

むかしから今に至るまでいろんなひとが「静」という用語を使っているが、その指し示すところには異同があり、深い・浅い、難しい・易しいの別があるのじゃ。

まず、宋・程伊川の

性静者可以為学。

性の静なる者は以て学を為すべし。

性格的に静かな人は、学問に進むことができる。

ということばと、三国・諸葛孔明が言ったとされる

非静無以成学。

静にあらざれば以て学を成す無し。

静かにできないなら、学問を成就することはありえませんな。

の二つの「静」は、簡単な方の「静」で、誰でも努力すればそのようになれるであろう。

次に、宋・周濂溪の

聖人定之以中正仁義而主静。

聖人これを定むるに中正仁義を以てし、静を主とせり。

聖人さまは、中庸がとれ、正当で、人間愛に溢れ、正義を求めることを目標にし、原則として静かであろうとした。

ということばと、「荘子」に出てくる

万物無足以撓心故静。

万物心を撓(みだ)すに足る無し、故に静なり。

なにものも心を乱すことができない。そうなれば静かでいられるだろう。

は、かなり難しい「静」で、古代以来の聖人・賢者たちの説いてきた学問を用い働かさなければ、達成できない代物である。

その方法を考えてみるに、「大学」にいう

静而後能安。

静にして後、よく安んず。

静かであってはじめて、安定することができる。

はまさにこの難しい方の「静」と同じものを指しているのだが、南宋・朱晦庵先生はここのところを(「大学章句」の注で)

心不妄動。

心、妄りに動かざるなり。

精神が不正に動かないことである。

と解し、「孟子」(告子篇)にいう「不動心」と同じことだ、と指摘しておられるのがヒントとなろう。

「孟子」の学問というのは、

先窮理知言、先集義養気、所以能不動心。

窮理を先にして言を知り、集義を先にして気を養う、よく心を動かさざる所以なり。

まず法則を研究してから言説を理解し、まずあらゆることに正義を通してから生気を養う、という手法であるから、心を不正に動かさない、ということができるである。

また、「大学」の教えというのは、

窮理知言則知止、集義養気則有定、所以能静也。

窮理し言を知れば止まるを知り、集義し気を養えば定める有り、よく静なる所以なり。

法則を研究し言説を理解すれば立つべき位置がわかり、あらゆることに正義を通して生気を養えば居るべきところに定まる、という手法であるから、静かでいられるのである。

整理すると、

能静者、雖応接万変、而此心常如止水、周子所謂動而無動是也。

よく静なる者は、万変に応接すといえども、この心常に止水の如く、周子いわゆる「動けども動く無し」これなり。

よく静かでいられるひとは、千変万化する外部の事象に対応していても、その心はつねに鏡のように静かな水のようになっているのだ。周濂溪先生のいう「動いているんだけど動いていない」という境地に至るのである。

(以下略)

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「宋元学案」巻九十二所収「草廬精語」より。

おわかりになりますかな? わかるひとにはわかったんではありませんかな? ふほほ。

ではみなさん、「静」でいられるようにがんばってくだされよー。さようならー。

(●^o^●)(●^o^●)(●^o^●)

・・・と言ったものの、実はわたしはわかっておりません。特に「古代以来の聖人・賢者の説いてきた学問を用い働かす」具体的な手法がまったくわかっていないんです。わからんのに腹いっぱいになったので調子よくなってエラそうなことばかり言ってしまいました。情けない。だんだん腹もこなれてきたし、子どものフリでもしてゴマかさないと・・・。

ごめんなちゃーい、反省して明日・明後日は更新自粛いたちまーちゅ。なの。ゆるちて。ぐすん。

 

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