本日は会社でうだうだして「眠い眠いやる気ない〜」の歌をうたっていたら、突如として手裏剣が飛んできて、机に突き刺さった。
「く、なにものじゃ?」
と飛び退って身構えたところ、
「肝冷斎、ひさしぶりじゃな」
と現れたのは最大のライバルの一人といわれるNクロであった。
「なんと、Nクロか。おぬしは既に身まかったはずでは・・・」
「ふふふ、わしは不死身よ」
「なるほど、そうであったか、わっはっはっは」
その後、「宋元学案」(宋・元の儒者について、それぞれの伝記・主要著作・後世への影響などの「学案」をまとめたもの。明の黄宗羲の遺稿に、その子・黄百家、清の全祖望らが加筆して成立。全100巻)などについて話したので今日は「宋元学案」から引用してみますよー。
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とはいえ肝冷斎雑志は漢文の王道ではなく辺境ですから、北宋四子やら程門四弟子やら朱子やら陸象山などの有名人は採りあげません。
「大儒」ではありますが、知名度がちょっと下がるあたりを行きます。
草廬先生、呉澄、字・幼清、江西・撫州崇仁のひと。南宋末に科挙の地方試験に合格したのですが、本試験に落第し、次の機会を待っている閧ノ国が滅んで、大元帝国の世の中になってしまった。その後、推薦を受けていくつかの教育職に就き、儒学の道統を護った。元統元年(1333)齢八十五にして卒す。
その学は南宋の後半に争っていた朱子(晦庵)の学と陸子(象山)の学を兼ねるもので、その点を両方の学派から批判されているが、本人の認識では朱子の学と陸氏の学は強調することが違うだけで基本的に同じである、ということであった。
「宋元学案」の各章には、まず、その章で扱っている思想家についてのコメントである「序録」というのがあります。
わたくし全祖望謹んで案(かんが)うるに―――
呉草廬(呉澄)は饒双峯(饒魯)の学統に出たのであるから、もちろん朱子学者である。その後また陸象山の学問をも兼ねて主とした。なぜなら草廬は(戴泉溪や程月巌のほか)程紹開を師としており、程氏はかつて道一書院を築いて朱と陸の両者の学問を和合しようとしたからである。しかし草廬の著書は、最終的には朱子学に近い考え方を示している。以下、草廬学案を述べる。
以下、伝記があり、主要著書の紹介があり、その弟子たちが並べられ、その伝記や主要著作が紹介される。
今日のところは著作の「草廬精語」から短いのを引用してみましょう。(明日も会社なんです(T_T))
○欲下工夫、惟敬之一字為要法。
工夫を下さんと欲すれば、これ「敬」の一字の要法たらんのみ。
自己研鑽をしようとすれば、ただ「敬(つつしむ)」の一字だけが、緊要なやり方である。
程明道以来の「主敬」説ですね。
○仁、人心也。敬則存、不敬則亡。
仁は人心なり。敬なればすなわち存し、敬せざればすなわち亡ばん。
「仁」とは人の心そのものである。しかしニンゲンが「敬」しんでいるときは存在しており、「敬」しみをなくしたときには存在しなくなるのである。
「人心」はゲンダイ語では単にニンゲンの心でしょうが、儒者のワーディングでは「書経」に拠り、天地と同一化したときのニンゲンの心である「道心」の対語で、天地と同一化していない欲望などを含んだニンゲンの心のこと。「人心」は「道心=仁」と別物なのではなくて、(条件つきだけど)そのまま「仁」になりうる、ということを提起しています。
○主于天理則堅、徇于人欲則柔。堅者凡世間利害禍福、富貴貧賤挙不足以移易其心。柔、則外物之誘僅如毫毛、而心已為之動矣。
天理に主たれば堅にして、人欲に徇(したが)えば柔なり。堅なるものはおよそ世間の利害・禍福・富貴・貧賤、挙げて以てその心を移易するに足らず。柔はすなわち外物の誘いわずかに毫毛もあらば、心すでにこれがために動けり。
天の理に主宰者として立ち向かうならたいへん堅実である。一方、ニンゲンとしての欲望に従って行動するようなら柔弱である。堅実であれば、実社会における利益・害悪、禍い・幸福、富貴と貧賤、すべて心を動かすことにはならない。これに対し、柔弱であると外部からの誘惑が毛先ほどもあるだけで、もう心はそのために動揺しだすものだ。
欲望に従ったらいかんらしい。
この条の下に黄百家が評をつけている。
黄百家謹んで思うに―――
所謂水不能濡、火不能爇、天理是也。非特堅而已。
いわゆる「水も濡らすあたわず、火も爇(も)やすあたわず」とは天理これなり。特に堅きのみならず。
「水も濡らすことができず、火も熱することができない」というのは、天理のことを形容したような言葉である。つまり、防水や防熱もできるのであって、単に「堅実」というだけのことではない。
これは蛇足ぽいですが、わざわざ付け加えるあたりがなんだかオモシロい。
以下、いろいろありますが、もう眠いしすごい遅いので今日の講義はここまでじゃ。
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「宋元学案」巻九十二「草廬学案」より。
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