昼間はびびって夜にはウハウハ―――エディプスならずともすぐ解けるナゾです。答えは「肝冷斎の平日の精神状態」。
今日終わってもまだあと二日も平日が・・・。来週からしごとツラくなると言われているのですが、ツラくないという今でももういっぱいいっぱいである。ツラいです。
ツラいとなんにもしたくなくなるんですわー。そして感情も無くなってくるんですわー。
しかし、「なんにもせずに、感情も無い」というのは実は「空空静静」として儒者も仏教徒も求める境遇では? サトりつつあるのかも?
・・・・・・・・・・・・・
先生に質問してみました。
儒者到三更時分、掃蕩胸中思慮、空空静静、与釈氏之静唯一般。両下皆不用、此時何所分別。
儒者、三更の時分に到らば、胸中の思慮を掃蕩して空空静静、釈氏の静とただ一般なり。両下みな用いざれば、この時何の分別するところぞ。
「わたしども儒者は、深夜になって一人、胸中のいろんなことを洗い去って心を空っぽにして静かにすることになりますよね。そうするとこの状況というのはシャカの一派(←仏教徒のこと)のいう「静」と同じではないかと思うのです。どちらもそのままじっとしているなら、いったいどこに違いがあるのでしょうか」
ぎろり、と先生の鋭い眼光に射すくめられる。ぎぎ。コワいけど、びびると怒られそうなのでガマンしてじっと先生を見つめた。
すると、先生はおっしゃった。
動静唯是一個。那三更時分、空空静静的、唯是存天理。即是如今応事接物的心。
動静ただこれ一個。那(か)の三更時分、空空静静的なるはただこれ天理のみ存す。即ちこれ如今に事に応じ物に接するの心なり。
「動いていても静かであっても、一個の「心」ではないのかね? キミがその深夜の時間帯に空っぽで静かでいるときというのは、キミの中にそのとき、(人為を排した)天然の理だけがある、という状況になっているのだ、と思うのだが・・・。その「心」は、まさにそのときに(物事が起これば)、事や物に接して対応していく「心」そのもののはずだ」
「え? その、その、その?」
ぎろり。
「わからないようなら逆に言ってみればよいかな?
如今応事接物的心、亦是循此天理、便是那三更時分空空静静的心。
如今に事に応じ物に接するの心は、またこれこの天理に循(したが)い、すなわちこれ、那の三更時分の空空静静の心なり。
まさにそのときに事や物に接して対応していく「心」というのは、同時に天然の理に順っているのである。つまり、その深夜の時間帯の空っぽで静な「心」そのものなのだ。
動静唯是一個、分別不得。
故に動静ただこれ一個にして分別するを得ず。
つまり、昼間事物に対応する「動」の心と、深夜に空っぽになっている「静」の心は同じものなので、それを二つ別々のものだ、とすることはできないのである。
知得動静合一、釈氏毫厘差処亦自莫揜矣。
動静の合一を知り得ば、釈氏の毫厘の差処もまたおのずから揜(おお)う莫(な)からん。
「動」と「静」が一つのものだということをわかってもらわなければならん。
そこがわかってもらえるなら、(「静」だけしかない)シャカ一派とのほんのわずかな違いも、おのずとはっきりしてくるであろう」
「な、なるほど」
と激しくうなずいて、わたしは
「ははー」
と平伏したのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「伝習録」巻下・黄直録より。ということで、「先生」は明の王陽明先生。
質問者は黄直さん。字・以方、江西・金溪のひと。嘉靖二年(1523)の進士で、王陽明の弟子。地方のスタッフを務めていたらしい。上記ではアホっぽいひとみたいに意訳しておりますがそれはフィクションなので、いたってマジメなひとですので誤解無きよう。(←当HPは、A日新聞とちがってウソはウソと明示するのである)