平成26年6月2日(月)  目次へ  前回に戻る

 

肝稗道人ですじゃ。なお肝稗道人は「きもひえ・どうじん」と読んでくださいね。

月曜日一日で疲れた。体力も気力も衰えた、というか若いころから無かったように思われる。こんな人生を送り続けているわけいにもいくまい、と思うので、そのうちタヒぬことにしました。みなさんより先になるか後になるかは知りませんが、絶対にタヒんでやる。少なくとも百年以内には。

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ところでタヒんだ後のことなのですが、

時俗愚民有火化其先人之骨者、謂之火葬。

時俗の愚民に、その先人の骨を火化する者有り、これを火葬と謂う。

最近のオロカな人民には、その親が死ぬと、骨になるまで火で焼いてしまうという(けしからん)やつらがおるらしく、これを「火葬」と呼んでいる。

親を焼いてしまうのである。ああ、なんたることか、サンタルチア。ただ、これについては清初の大学者・顧炎武がすでにその惨酷なることを論じているので、ここでは触れません。(←肝稗道人がめんどくさがって言っているのではなく著者の趙翼さんが言っている)

ここで論ずるのは「洗骨葬」のことである。

この葬法は江西の廣信あたり一帯にひろがっている風俗で、

既葬二三年後、輙啓棺洗骨使浄別貯瓦缾内埋之。

既に葬りて二三年の後、すなわちその棺を啓き、骨を洗いて浄からしめ、別に瓦缾(がへい)の内に貯えてこれを埋む。

一度土葬し、二三年してから、必ずその棺桶を開いて骨を取り出し、まだ残っている肉をきれいに洗い取って、陶製のカメの中に移し換えてまた墓中に埋める。

という葬法である。(著者は内陸部の江西の例しか知らないようですが、我が国南島地域をはじめ東シナ海一帯に見られた風習である。)

この葬法は親の棺桶を開き墓暴きをする、というたいへんな親不孝であるだけでなく、犯罪の温床ともなるのである。

すなわち

是以争風水者、往往多盗骨之弊。

ここを以て風水を争う者、往々にして多く盗骨の弊あり。

このために、お墓の場所がいい悪いで争うひとたちは、このカメごと遺骨を盗み出す、という事件が多く起こる、という弊害があるのだ。

「風水」の考えによれば、「吉」の場所にお墓を作って先祖の遺骨を埋めると、その家は栄えることになる。逆に「凶」の場所に埋めるとその家は衰える。ということは、A家が栄えているのを妬ましいと思う者Bは、A家のお墓を破壊したり、そこに埋められている遺骨を盗み出して、そこに自分Bの先祖の遺骨を埋め、A家の先祖の遺骨は別の「凶」なところに移し換えてしまえばいい、そうすればA家は衰え、我がB家は今A家が享受しているようなシアワセを得ることができる―――ということになります。

このBが、A家と「風水を争う者」です。A家の者がB家にやり返すと、お互いが「風水を争う」という状態になり、これが何世代にもわたったり、いくつもの家が関係して起こったりして、時には憤懣がバクハツして「械闘」といわれる物理的ゲバルトを用いた私戦争さえ起こることがあります。

「洗骨葬」をしますと、Bが遺骨を盗み出すとき、棺の中でぼろぼろになってしまった遺骨は掘り出しにくいが、カメの中にまとまっているならカメごと盗んでしまえばいいので、盗みやすくなる、というのが「弊害」なのである。

実際に、わしの友人・沈倬(しん・たく)くんが上饒県令として赴任したとき、

見庫中有骨数十具。皆盗葬成訟貯庫者。

庫中に骨数十具有るを見る。みな盗葬して訟を成し庫に貯えらるものなり。

役所の倉庫に数十体分も人骨があるのを発見して驚いた。説明を聞いてみたところ、すべて遺骨泥棒で訴えられた事件の証拠の品なのだということだった。

ああ、このように人倫に悖るような犯罪を惹き起こすとは、「洗骨葬」とはなんという野蛮な風習だろうか。(←肝稗道人おもうに、それは「風水」の考え方を改めればいいだけのように思えますが・・・)

実は「南史」「顧憲之伝」(巻三十五)の中に、

―――顧憲之は斉の時代に衡陽の内史の職にあったが、このころ大いに飢饉があって多くの人が死んだ。ひとびとは棺を求めても得られないので、葦を編んで作った袋に詰めこんで葬る状態であったが、顧憲之はそれは祖先の遺体を扱う正しい方法ではないと説き、富のある者には棺を整えさせ、貧しい者・身寄りのない者には自ら出資して棺を求めしめた・・・。

というひとだったのですが、けしからんことに

土俗人有病、輙云先亡為禍、乃開冢剖棺洗枯骨、名為除祟。

土俗人、病有れば、すなわち「先亡の禍を為すなり、すなわち冢を開き棺を剖(ひら)きて枯骨を洗わん」と云い、名づけて「除祟」と為せり。

土俗の人民どもは病気になったりすると、

「これは死んだオヤジが祟っていやがるのだ。しようがない、墓をあばき棺桶を開いてオヤジの肉のとれた骨をきれいに洗ってやろう」

と言(って、そのように行)う。これを「祟り祓い」と呼んでいた。

顧憲之はこの土俗の人民を諄々と教え諭して、墓をあばかないようにさせたのであった。――――

という記述があるので、

此俗由来久矣。

この俗の由来は久しきかな。

この風俗、ずいぶん昔からあるものなのである。

なかなか土俗どものオロカな風習は治らないものなのだなあ。

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・中期の大知識人・趙翼の歴史考証集である余叢考」巻三十二に書いてあったことなのです・・・が、読んでいるうちに、

「うるさい!先祖代々やっていることにはいろいろ意味があるのだ。そういう意味を無視して、良識派のふりして上から目線でバカにするんじゃない、ほんとにオロカなのはおまえらだ!」

と思えてきました―――が、そういえばみなさんもゲンダイにおいてはご自分は「良識派」のつもり、だったんでしたね。あんまりほんとのこと言うと傷ついちゃうかも知れませんので、これぐらいにしておきますかのう。ふおっほっほっほ・・・。

 

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