まだ水曜日。やっと半分。
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「はやくおしまいにしろ!」
と言うひとも多いかと思いますので、今日は「楚辞」の「離騒」・・・は長いので、そのおしまいのところだけ引用して紹介することにちまーちゅ。
「楚辞」は戦国末から漢代にかけて、楚、すなわち長江中流域の湖北・湖南地方を中心に行われた韻文の総称ですが、その代表的な作者とされるのが戦国の楚國の王族政治家で愛国者の忠臣ですばらしいひとであった屈原というひと、ということになっております。屈原というひとは同時代の記録からは実在が確認できないみたいなのですが、司馬遷の「史記」に「屈原列伝」があってその伝がつたわっております。なので、ほんものの屈原がどんなひとかともかく、司馬遷が諸地方の記録・伝説を収集した前漢の半ばごろにはもう「屈原伝説」(参考:屈原「漁父辞」)というべきものが成立していたようです。
屈原は楚の王族として忠勤に励み、楚王に秦に騙されないように諫言していたのですが、秦からの賄賂を受けた楚の大臣たちが屈原を讒言し、ついに王から遠ざけられた。彼は憤懣と憂国の思いを懐きつつ、「離騒」や「天問」などの作品を作り、最後は「九歌」というのを作って、ついに
やってられるかよー! みなちゃん、さようなら〜 うひゃひゃひゃひゃ〜〜〜\\\\\\\\\\\ (どぼん)
と汨羅(べきら)の淵に身を投げて死んだ―――。
ということになっております。
中でも「離騒」は名作、ということになっておる。
しかし、今回は残念ながらそのおしまいのところだけ紹介せよ、ということなので、いちばん最後にあります「乱」の部分を引用ちまーちゅ。
「乱」は万葉集の長歌の最後に「反歌」(短歌)というのが引っ付いていますように、そこまで述べてきた長い詩をまとめ直し、「理(おさ)めた」もので、「乱」とは乱れた糸のことで、乱れた糸は「おさめ」なければならいことから、「乱」は「理」の意味も持つ。・・・・のだそうでございます。
ということで、
乱曰。
已矣哉、
国無人莫我知兮。
又何懐乎故都。
既莫足与為美政兮。
吾将従彭咸之所居。
以上が、「乱」の全文。
乱に曰く、
已(や)んぬるかな、
国に人無く、我を知る莫(な)し。
また何ぞ故都を懐(おも)わん。
既にともに美政を為すに足る莫し。
吾、まさに彭咸の居るところに従わんとす。
おさめうたを歌わん―――
もうどうしようもございません。
この國には賢者がおりませず、わしの誠意をわかってくれるひとはおりません。
これ以上、ふるさとの都市国家のことを懐かしう思うても何にもならぬ。
いまや称賛されるような政治をともに成し遂げていくに足りるお方がおらぬので、
わしは、これから彭咸(ほうかん)さまのおられるところに行きまする。
「彭咸」という人名が出てまいります。屈原の作とされる楚辞に何度も出てきて、屈原が敬愛しアコガレている人物らしいのですが、実はどんなひとかよくわからない。「離騒」の古い注には
殷賢臣。諌其君、不聴、投水死。
殷の賢臣なり。その君を諌めて聴かれず、水に投じて死す。
紀元前15〜11世紀の殷帝国時代の立派な忠臣である。その主君を諌めたが聴いてもらえなかったので、川に身を投げて死んだ。
と書いてあって、そういうひとなのであろう。「論語」において孔子が口にする「老彭」、道家の書に出てくる「老彭」、楚辞に出てくる「巫咸」などと同じ伝説の人物なのか違うのか(「巫咸」とは一緒ひとかも)もよくわかりません。
ただ、諫言して聞き入れられずに投水自殺した、というのは、そのまま屈原の伝記そのものでもあり。もしかしたら「屈原伝説」自体が「彭咸伝説」の楚の地方版だったりするかも・・・というのは考えすぎかも。
いずれにせよ、
まさに彭咸の居るところに従わんとす。
これから彭咸さまのおられるところに行きまする。
というのは、
「もうぜんぶイヤになった、川に身を投げて死んでやるでちゅーーーー!」
と言っているのですね。
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あんまり週末が遠いので、もうイヤになってきた、おいらももうおしまいでいいよー、うひゃひゃひゃひゃひゃ〜〜〜\\\\\\\\(どぼん)。
明日の午前中は会社に行かないと届けて来た。