肝冷斎一族ではなくみなさんが困っているといけないので、ご参考までに、今日は休みなのでちょっとまとも?な古典を読みます。
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むかしむかし、大むかし。
宋の穆公(在位前728〜720)が病に臥した。
大司馬の孔父嘉を枕辺に呼び寄せ、自分の亡き後には、甥の公子・与夷を即位させるように伝えた。(なお孔父嘉は孔子の御先祖とされる宋の賢者です。念のため)
「与夷どのを、でございますか」
「そうじゃ。
先君舎与夷而立寡人、寡人弗敢忘。
先君、与夷を舎(お)きて寡人を立てしこと、寡人あえて忘れざるなり。
「先君」とは宋の宣公というひとで、穆公の兄貴に当たり、与夷はその息子になります。「寡人」は諸侯の自称。
先代である兄上が息子の与夷ではなく、わしを後継者にしたということを、わしは忘れているわけではない。
兄上は与夷がまだ幼いので、わしに国を預けてくれたのじゃ」
「どうしても与夷どの、ですか」
「そうじゃ。そうしなければ、
若以大夫之霊、得保首領以没、先君若問与夷、其将何辞以対。
もし大夫の霊を以て、首領を保ちて以て没するを得るも、先君もし与夷を問わば、それはた何の辞を以て対せんや。
「大夫」は相手の孔父嘉のこと。「霊」はここでは「福」と訓じ、「おかげ」のような意味になります。
大司馬どの。このままおまえさんのおかげで(わしが弑殺されたりせず)、このそっ首を切り離されずにあの世に行くことができたとしよう。そのとき、あちらで兄上から「ところでおまえ、わしのむすこの与夷をどうしてきた?」と訊かれたとき、なんといって答えたらいいのか困ってしまうではないか。
本筋とは関係ありませんが、首をちょんぎられるとあの世に行ってひとと話が出来なくなるんですね。これは新発見。
請子奉之、以主社稷。寡人雖死、亦無悔焉。
請う、子のこれを奉じて、以て社稷の主とせんことを。寡人死するといえども、また悔いる無し。
頼むぞよ。おまえさんが彼を奉って、この国の土地の神と穀物の神を祀る主人(すなわち国の主権者)にしてやってくれ。そうしてくれれば、わしは死んでも後ろめたいことは何も無いのじゃ」
「うーん」
孔父嘉はもう一度確認しました。
群臣願奉馮也。
群臣、馮を奉ぜんことを願えり。
「臣下一同は、あなたのむすこである公子・馮さまを奉りたい、と思っているようでございまするが・・・」
穆公、曰く、
不可。
不可なり。
「だーめ。
よいか。
先君以寡人為賢、使主社稷。若棄徳不譲、是廃先君之挙也。豈曰能賢。光昭先君之令徳、可不務乎。吾子其無廃先君之功。
先君は寡人を以て賢と為し、社稷の主たらしむ。もし徳を棄てて譲らざれば、これ先君の挙を廃するなり。あに能賢と曰わんや。先君の令徳を光(おお)いに昭らかにせんことに、務めざるべけんや。吾が子、それ先君の功を廃する無かれ。
先代はわしが道理のわかった男じゃと思ったからこそ、国君として土地と穀物の祭祀を掌らせたのじゃ。もしもわしがここでその善いところを棄てて、自分の子孫に国を伝えようと欲を出すようであれば、これは先代のやったことを否定することになる。そんなやつは道理がわかったやつだとは言えんから(、先代はそんな道理のわからんやつを後継者にしたのだ、と批判されることになるから)な。
先代のすばらしい徳を大いに明らかにすることをしないで、それを否定するようなことをしてしまっていいものか。おまえさんも、先代の功績を否定するようなことはしないでくれよ」
というのでございます。
「むむむ・・・、そこまでおっしゃりまするならば・・・」
ということで、大司馬・孔父嘉は公子与夷を世子(後継者)とし、混乱を生じせしめぬよう、公子馮を首都から遠ざけ、鄭の国に人質として赴かせた。
その手順が終わったところで、この年(周の平王の五十一年(前720))八月庚辰の日、ついに穆公卒し、公子与夷立つ。
これが宋の殤公である。
この件につき、君子(後世の物識りのひと)曰く―――
宋宣公可謂知人矣。立穆公、其子饗之。命以義夫。
宋宣公は人を知ると謂うべきなり。穆公を立て、その子これを饗(う)く。命、義を以てするかな。
宋の宣公というひとは、ひとの性質を見ぬくことができたのだ、ということだ。弟の穆公を後継者にしたおかげで、むすこがちゃんと後を継ぐことができた。穆公の遺命は実に正しいものだなあ。
商頌曰、殷受命咸宜、百禄是荷。其是之謂乎。
商頌に曰く「殷、命を受くること咸(みな)宜(よろ)しく、百禄これ荷(に)なえり」と。それ、これの謂いか。
「詩経」の最後の方に載っている「商頌」(商の国のほめ歌※)に、
殷王の受けた天命は、すべて適切なものであり、無限の幸福を受け取ることになった。
とあるが、まさにそのとおりだなあ」
と。
みなさまも後継者をお選びになるときは、よくよく「人を知」らねばなりませんぞ。
※「商」は「殷帝国」の国号で、「宋」は「殷」の後継国家ですから、「宋」も「商」である。「詩経」の「商頌」は伝統的には「殷帝国」時代の儀式に使われた歌だ、ということにされていますが、語法などから見て、確実に春秋の「宋」の国の儀式の歌であると考証されております。
なお、この詩経の「咸宜」(みなよろし)という語、幕末の大分日田の廣瀬家の私塾・咸宜園の名の拠るところでございます。
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長かった。疲れた。(>_<)
後継者を選ばないといけないひとは参考にしてください。「春秋左氏伝」隠公三年「宋穆公疾」(宋の穆公、疾(や)めり)条より。ところでこの殤公・与夷というひと、約10年ほど公の位にありますが、その後は・・・、という後のお話はまたのことといたしましょう。
・・・おいらももともとは「春秋」を含む四書五経、さらに朱子文集・語類、王陽明全集からはじめているのでございますが、それらを読んでたころに
「おお、そうか、君は正統派だ、立派だなあ、それを続けたまえ」
「感心したから小遣いをやるぞ、わははは」
「かっこいい、正統派だなんて。肝冷斎さんって、すてき♡♡♡」
等と褒めてくれる人がいなかったので、どんどん稗史小説の類に堕落していったんですな。確かに、上の左氏伝の話など、「それがどうした?」という点において、いつもご紹介しているくだらん稗史小説どもとまったく同類です。わざわざ難しい顔をして四書五経を読む必要はあまり無い・・・ように思われます。
しかも、おいら、その間に、ぼよよ〜ん、と変化して、コドモになってしまいまちた。コドモは楽だからいいでちゅけど、オトナのころはいろいろたいへんだったなあ。
ちなみに、封建チャイナのオトナには、「三佳辰」(三つのよい日)というものがったそうなのでございまちゅ。すなわち@新婚の宵、A長男の生まれた日、B科挙試験に合格した日、なのだそうですが・・・、これは怪しからん!
封建、支配者階級、オトコ目線・・・。怪しからん価値観に満ち満ちておりまちゅね。やっぱりオトナはダメだなあ。
なお、肝冷斎の「三佳辰」は→こちらでちゅが、これは許されるか。コドモだし。みなさまの「三佳辰」は如何。