会社行きたくないよう。現実から逃避するよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっとむかし。
有老叟、垂黄髪、容貌甚異。
老叟有り、黄髪を垂れ、容貌はなはだ異なり。
不思議なじいさんがおりました。色褪せた白髪を垂らし、顔かたち普通ではなかった。
この老人、
棒一竹篋。中有木仏経巻香炉之類、行且拝、曰、今年大熟。
一竹篋を棒す。中に木仏・経巻・香炉の類有りて、行きかつ拝し、曰く「今年大いに熟さん」と。
竹製の箱を棒で支えて背負ってくる。この箱の中には、木の仏像、お経の巻物、礼拝用の香炉などが入っていて、村々を歩き回り、諸所で箱を下して中の仏像を拝むのであった。そして、ひとびとに
「今年は豊年満作ですぞお」
と告げた。
そこでいくばくかの喜捨を得て、次の村に行くのである。
毎春即出、秋至不知何往。
毎春すなわち出で、秋至ればいずくに往くやを知らず。
毎年春になるとやってきて、あちこちを歩き回っているのだが、秋が来るころにはすがたは見えなくなってしまう。
ああ。
あの老人が毎年現れたころは、豊作続き。世の中も穏やかであった。
しかしながら、世祖の至元丁亥歳(1287年)のこと、老人は
忽不出。
たちまち出でず。
前触れも無く、来なかった。
ひとびと、
「あのじいさん、どうしたんだろうねえ」
と話していたものだが、その年、
遂大水。
遂に大水あり。
このあたり(江蘇)一帯は大洪水に襲われた。
作物も田畑も家々もすべて流されたのである。
生き残ったひとびとはまた営々として田畑を耕し直したが、
自後莫知死生、歳復前稔矣。
自後、死生を知る莫く、歳は前稔に復さず。
その後、老人は現れなくなったので、彼が生きているのか死んだのか誰も知らない。そして毎年の稔りは二度とそれ以前のように豊かには戻らなかった。
筆者(←肝冷斎にあらず、元・吾衍さん)の祖母は七十数歳であるが、彼女が云うには、
自幼見之、形容亦只如此。
幼きよりこれを見るに、形容またただかくの如し。
「そのじいさんは、わしゃ、ちいっちゃいころから毎年見かけたが、こちらが子どもから大人に、さらに年寄になっても、じいさんの姿かたちはちっとも変わらなかったねえ」
そうである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
元・吾衍「闍序^」より。
吾衍、字・子行は江蘇・魯郡のひと、古典に学び、書や音律のことに詳しかったが、官吏や富豪などを俗物として見下して世におもねること無かった。数十巻の著作があったというが、至大四年(1310)の冬、突然身をくらましてしまい、その行方は親友の陸友仁にもわからなくなったそうである。その著作の中から、陸友仁が出版して広く世に問うたのが随筆「闍序^」で、この書にはしばしば前人の記し得なかった学術考証が述べられており、後世高く評価されている・・・らしい。
ところで、一部のひとは知っておられるかも知れませんが、わたしも普段は童子形をとったりしておりますけれど、豊年満作のとしには老人の姿で現れ、
「あら、めでたいのう、めでたいのう」
と寿ぎのうたを歌い、よろめく足で慶びの舞を舞ったりしております。しかし世の中が世知辛くなると出てきません。さあ今年は出ようかな、出ないでおこうかな。みなさんが優しくしてくれるかどうか、その心がけ次第であるのですがなあ。