平成26年4月25日(金)  目次へ  前回に戻る

 

今日は午後から躁と鬱が来まして、なんか疲れた感じで、夕方は10数年前の職場の同窓会。メンバーの一人の快気祝いである。

月日の経つのは速いものでございまして、当時小学校や中学校だったムスコ・ムスメが巨大になったという報告が数人からあった。某有名会社の社長さんとか某巨大組織の幹部とか経済政策やってるひととかが来てて・・・そういえばこのひともいました。

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さらに数十年したら、こんな詩をつぶやくひともいるのかな?

人事時時有変遷、  人事時々に変遷ありて

受恩師友半黄泉。  受恩の師友、半ばは黄泉。

 人間の活動は時が過ぎると移ろうものでござるがゆえに、

 いろいろ恩義を受けた師匠や朋友も、今は半ばはあちらへ行かれた。

愧吾依旧存狂態、  愧ず、吾の旧に依りて狂態を存し、

赤間関頭又送年。  赤間関頭にまた年を送るを。

 彼らに恥しく思うには、わしはいまだに昔どおりのうつけ者で、

 ここ赤間が関(現代の下関)のほとりでまた一年を終えようとしているわけじゃ。

黄泉路にはみなさまがお見えになる前にわしが先駆けて、一番槍か二番槍の功名を挙げておりましょうから、わしは半分いなくなっている時まではいませんけど。

ちなみに、この詩の作者はこのとき満年齢で26歳。若者でございますのでこのひとが「昔どおりのうつけ者」なのはしかたないとして、師匠や朋友が半分も死んでしまっている、というのはどういうことであろうか。

実はこのひとの師匠も朋友の多くもキ○ガイみたいなひとが多くて、野山獄や伝馬獄や蛤御門や寺田屋やそこらへんでゴロゴロと死んでしまったからなんですね。

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作者は東行居士・高杉晋作、慶応元年(1865)旧十二月二十七日の作「歳晩」三首の一。(この作品と同時の作です。そっちの方が出来はいいかも)

高杉的には既に第一線を退いて、下関で「隠棲」している時期(まだ健康は害してない)ですが、直前、木戸孝允、品川弥二郎、坂本竜馬などと会して薩長連合のラインをまとめ、木戸を京都に送り出したところである。

ところが、翌年一月には女房が萩から出てきやがった。しかも子ども連れ。高杉は当時愛人と同棲中であったから、

「うひゃあ、これは困りまちたー」

と愛人も放り出して、伊藤俊輔とともに長崎に出向いた(このとき薩摩に赴いて西郷や英国公使パークスと面会を策したそうであるが成らず、藩費で上海行きを画策しているうちに第二次長州征伐が始まる)りして、暗躍していました。

とにかく女房と愛人がいるので下関には戻らず、長幕戦争が始まって女房が萩に帰ったのを知ってから下関に戻り(このころすでに結核発症)、それから小倉戦争などに大活躍してから寝込んで死んだ。(冨成博「高杉晋作 詩と生涯」1992三一書房を参照した。三一書房の本なんてこの本以外持ってないよ)

女房が来るので愛人放り出して逃げ出すなど、見どころのある若者であった。

 

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