わずか一週間ほど前はこんな花盛りだったのに・・・。
岡本全勝さんのHPに「年年歳歳花不同」というおはなしが書かれておりました。うまいこというもんですね。そこで、今日はこの名句にかかわる例のお話をさせていただきます。
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劉廷芝(あるいは延芝)は唐・高宗の上元二年(675)の進士だそうですが、そのとき、年いまだ二十五といい、詩人としては特に女性の悲しみを詠むに優れ、「詞情哀怨」と評された。
ただし、その詩、
多依古調、体勢与時不合、遂不為所重。
多く古調に依り、体勢時と合わず、ついに重んずるところと為らざるなり。
たいてい古い調子で作られていて、当時はやりの詩形・詩情とは違っていたので、結局のところ重視されるところとはならなかった。
のだそうですが、しかし、
美姿容、好談笑、善弾琵琶、飲酒至数斗不酔、落魄不拘常検。
美姿容あり、談笑を好み、善く琵琶を弾じ、飲酒数斗に至るも酔わず、落魄するも常検に拘らず。
容貌やスタイルは美しく、談笑を好み、琵琶が上手、お酒を飲んで数斗に至るとも気分よくなるだけで酔っぱらうというわけではない、というすばらしいひとで、当時受け入れられていなかったとはいえ、それでへこんでしまっている、というわけでもなかった。
イケメンの勝ち組のひとではないか、と思われます。
彼は、やがて後世に名作とうたわれることとなる「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わる)(あるいは単に「白頭吟」ともいう)の詩を作ったとき、まず
今年花落顔色改、 今年(こんねん)花落ちて顔色(がんしょく)改まり、
明年花開復誰在。 明年花開いてまた誰か在る。
今年、花びらの落ちるころには、(少女の)美しい容貌も変わりはじめ、
来年、花が咲くころには、誰かがまたこの世から去っていることだろう。
の句を得て、嘆じて曰く
此語讖也。
これ、語讖(ごしん)ならん。
「これは、予言のことばになってしまうかも知れません。
かつて晋の石祟が「白髪頭になったらおまえさんと同じところに帰ろう」と謳って、その後しばらくして死んでしまったのと同じようなことに、わたしもなってしまうのかも知れませんね・・・」
と思いまして、しばらくこの句をしまっておいた。
ところが、今度は
年年歳歳花相似、 年年歳歳花相似たり、
歳歳年年人不同。 歳歳年年人同じからず。
まいとしまいとし、花は同じように咲くけれども、
まいとしまいとし、人はどんどん変わっていくのだ。
の句を得てしまった。(←だったら作るなよ、と言いたくなってきますが、天より才を賦された詩人には、止めておきたくても美しい詩句が運命的に出来てしまうものなのでございましょう。)
そこでまた嘆じて曰く、
死生有命、豈由此虚言乎。
死生命有り、あにこの虚言に由らんや。
「いつまで生きられるか、いつ死んでしまうか、ということは、結局サダメのあることなのだ。こんな言葉でそのサダメが変わるわけでもあるまい」
と。
ここにおいて先だっての句と合わせて、一篇の詩を作ったのだ、という。
さて、彼の妻は少し先輩の詩人・宋之問のムスメだか姪っ子だったかだそうで、この宋之問は権勢に取り入ったり、とかく問題のある行動をとったとされる人であるが、その人が劉廷芝の「年年歳歳・・・」の句を知って、
「その一聯をまだ発表していないのであれば、ぜひわしにくれぬか」
と頼んできた。
廷芝はもともと優柔な性格である上に不吉な句だと思っていたこともあって、ひとたびはこれを肯った。
「そうか、くれるか。すまぬのう」
と之問は喜んだのだが、廷芝はやがてまた惜しくなってきて、之問に連絡もせずについに先に公表してしまった。
之問怒其誑己。
之問、その己を誑かすを怒る。
宋之問は、だまされ、あざけられたと思って、怒った。
「どうしてくれようか・・・」
憤懣遣る方無く、ついに
使奴以土嚢圧殺於別舎。
奴をして土嚢を以て別舎に圧殺す。
使用人に命じ、離れに誘い出した上で、土嚢をかぶせて押し殺しさせてしまったのだ。
時未及三十、人悉憐之。
時にいまだ三十に及ばず、ひと、ことごとくこれを憐れめり。
その時、劉廷芝の年はいまだ三十にもならなかった。ひとびと、みな彼の死を悲しんだということである。
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・・・というのが、元・辛文房「唐才子伝」(巻一)などに載せられている有名なお話でございます。この「代悲白頭翁」の詩は、劉廷芝の詩集にも、宋之問の詩集にも載っているので、そのため後世作られたお話だろう・・・かも知れませんし、ほんとうのことかも知れませんし、わかりません、というのがこの詩を紹介するときの常套句みたいになっているので、わたしも紹介させていただきました。
ちなみにワタクシごとながら、もっと休みたい。年年歳歳ぼくらは鉄板の〜、上で焼かれてウツになっちゃうよ。