東大寺修二会の行われるこの時期は本来寒いものであるが、それにしても寒い。地球が温暖化しているかしていないかはおエライ学者さまが決めることであるが、近年、南関東の夏が温暖化し冬が寒冷化しているのは、われら愚民にも明らかである。
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あんまり関係ないような話なのですが、
元の順帝の至正十一年(1351)、韓山童らが起こした赤眉の乱は、いつわり伝えて、
天下大乱、彌勒仏下生。
天下大乱し、彌勒仏下生せり。
世界は大いに乱れるぞ、ミロク菩薩はブッダとなって、兜率天から降りて来られる!
と喧伝した。
江淮愚民多信之、果寇賊蠡起、遂至国亡。
江淮の愚民多くこれを信じ、果たして寇賊蠡起(れいき)して遂に国の亡ぶに至る。
長江下流や淮水流域のチャイナ東南部のアホバカ人民たちは、多くこのデマを信じ、その結果、次々と群盗が起こって、ついにはさしもの元帝国も滅びるに至ったのである。
デマ(「謡言」)の力は大きいのだ。
ところで、この「弥勒仏出現」デマは韓山童らがはじめて考えたものではない。
すでに順帝の至元三年(1337)、汝寧軍が捕獲したといって献上してきた反乱胡族の鹵獲品の中には、
有弥勒仏小旗、紫金印、量天尺。
弥勒仏の小旗、紫金の印、量天の尺有り。
「弥勒仏」と書かれた小旗、(天子の使う)「紫金」の印鑑、(天下の標準とされるべき)「天も量れる物差し」などがあった。
ということである。
また、泰定帝(在位1324〜1328)の時代に、息州の民・趙丑斯、郭菩薩らが妖しい予言を唱えて、
弥勒仏当有天下。
弥勒仏、まさに天下を有つべし。
弥勒ぼとけさま、やがて天下を手にいれなさる。
と言い、将来の幸福を前払いで買える、と称して、弥勒仏への寄附を集めて歩いた。
このときは地方官憲がこのことを怪しみ、河南行省においてこの集団を捕らえて解散させたが、
是弥勒仏之謡、已久播民間矣。
これ、弥勒仏の謡、すでに久しく民間に播するなり。
これからみると、ミロク仏のデマは、詐欺まがいから始まって、だいぶん以前から人民どもの間では言いつがれていたのだ。
蓋乱之初起、不抜其根株、遂至蔓延而不可救。
けだし、乱の初めて起こるにその根株を抜かざれば、ついに蔓延して救うべからざるに至るなり。
要するに、乱れが起こり始めたその早いうちに、根源の原因を取り除いてしまわないと、いずれはびこってどうしようも無い状況になってしまうものなのである。
元の順帝が群盗に攻められて大都(北京)から北遷したのが至正二十八年(1368)であるから、泰定の時代からは約40年で国が滅んだのである。
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と、清・趙瓯北の「廿二史劄記」巻三十に書いてあった。
勉強になります。「易」(坤・初六爻辞)に曰う、
履霜堅冰至。
霜を履(ふ)めば堅冰至る。
晩秋になって地面に降りている霜を踏んだら、やがて堅く氷の張る厳冬がやってくるのを知る。(賢者はわずかな予兆から未来のことを予期し、備えねばならない。)
と。本州や北海道のひとは、救うべからざるに至る前に、われら温暖斎一派(注)のように早く南西諸島(か伊豆諸島)に移住した方がいいかも。冬も凍死の心配無いし、夏も海風涼しいですよ。
(注)温暖斎一派は南西諸島、南九州から四国、紀伊半島などに分布している肝冷斎種族である。