肝冷斎が海賊船に乗ってどこかに行ってしまいましたので、今日は留守番役の番冷斎がやります。
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趙のひとがネズミの害に困っていたが、中山(今の山西)にはネズミを退治するネコというものがいると聞いて、これをもらいうけに行った。
中山のひとは趙のひとの事情を聞いて、ネズミをよく獲るというまるまると太ったネコをくれた。
このネコ、
善捕鼠及鷄。
善く鼠と鷄を捕らう。
ネズミのほか、ニワトリを捕まえるのも上手であった。
さて、
月余鼠尽而其鷄亦尽。
月余、鼠尽き、その鷄もまた尽く。
一か月余り―――
ネズミは出なくなった。が、その家に飼っていたニワトリも一羽も残らなくなっていた。
そのひとの子、父に告げて言うに、
蓋去諸。
なんぞこれを去らざる。
「すでにネズミは出なくなりました。しかしこのままでニワトリを飼うことができません。そろそろネコはもう要らないのでは・・・」
父は答えていう、
「ネコちゃんをどうしようというのじゃ?」
「いや、もう用は無いのであれば中山に返すもよし、山野に棄ててしまうもよし・・・」
父、言う、
是非若所知也。吾之患在鼠、不在乎無鷄。
これ、なんじの知るところにあらざるなり。吾の患(うれ)いは鼠に在りて鷄無きことに在らず。
「おまえにはわかっとらんようじゃ! 問題なのはネズミのことなのじゃ。ニワトリがいなくなることは問題ではないのじゃ」
「どういうことでしょうか」
父、いう、
夫有鼠、則竊吾食、毀吾衣、穿吾垣墉、壊傷吾器用。吾将飢寒焉。
それ、鼠の有れば、吾が食を竊(ぬす)み、吾が衣を毀ち、吾が垣墉を穿ち、吾が器用を壊傷す。吾、まさに飢寒せんとす。
「いいか、ネズミがいると何が起こるか。やつらは、わしらの食い物を盗む。わしらの衣装を食い散らかす。わしらの家の壁や垣根に穴を開けやがる。わしらの持ち物を壊し、傷める。結局、わしらは飢えと寒さに襲われることになるのじゃ。
不病於無鷄乎。無鷄者弗食鷄則已耳。去飢寒猶遠。若之何而去夫猫也。
鷄無きより、病まざらんか。鷄無きは鷄を食わざれば即ち已むのみ。飢寒を去ること遠きがごとし。これをいかにしてか、夫(か)の猫を去らん。
ニワトリが無いことより、ずっと困ったことではないか。ニワトリが無ければニワトリを食わなかれば済むことである。飢えと寒さに比べれば、比べものにならん。それなのにどうしてこのネコちゃんを棄ててしまおうなどというのか」
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以上。
明・劉基「郁離子」巻上より。ニワトリまで捕るから、といってネコを返してしまうと、ネズミという本当に害のあるものが殖えてしまう。平和だエコだクジラだ地域だ家族だ太陽発電だ、と言っていると、本当に大事なものを失ってしまうことになるかも・・・。奄美大島名物「鷄飯」が食べられなくなるかも知れませんね。
有名なたとえ話なので、五年ぐらい前に先代の肝冷斎が一度ぐらい引用しているかも知れません。(・・・今チェックした限りではしていないみたいですが。)
なお、奄美はネズミの害が多いところだったそうで、イヌは虐待されたがネコは大切にされたという。奄美も沖縄地方と同様にネコのことをマーヤーというようですね。しかもでかいのが多い。・・・と、海賊船から連絡がありました。