フィールドワーク録14 (起:平成26年1月4日(土))  目次へ  平成25年11月〜12月へ

←絶対いいことある〜!と信じてまだ生きる。

1月4日

鳥羽を調査

○かどや・大庄屋広野家住宅 ・・・ 広野家は鳥羽・大庄屋であり、薬種商・三僊堂を開業。6世藤右衛門が天明の生まれ、7世が早逝したため6世が再び庄屋業務、8世のとき明治維新、9世は東京帝大に行って東京に出てしまい、10世が千葉県在住、平成に入って亡くなられた際、鳥羽市に旧宅を寄附されたよし。

○鳥羽城(錦城) ・・・ なお、同城跡に建つ鳥羽小学校は、三重県下最初の鉄筋小学校であった。これは広野家等の寄附によるものという。

1月12日(日)

神津島を調査(詳細・写真は後日アップ)

○多幸湾より上陸。砂糠(すなぬか)山の黒曜石を望む。

←中央、天上山。右手の崖の方の黒い帯状の部分が砂糠山黒曜石層。縄文人が取りに来て、中部地方まで運んでいた。

○郷土資料館

○物忌奈神社 ・・・ 事代主命(三嶋大明神)の嫡子・物忌奈命を祀る。延喜式内社。薬師堂あり。小祠あり。二本の棒の間にしめ縄をわたして聖域を示す方式が使われておった。

←物忌奈神社参道。集落の海に面した崖下にあり。モノ・イム・ナと古代語を並べるだけでわくわくするが、阿波の祭祀一族・忌部氏との関係はあるのか。

←拝殿。背後に屋根だけちょっと見えるのが正殿。赤瓦である。

←木の洞の前にある、二本の棒を立て、しめ縄をわたした「標識」。「ひもろぎ」を示すのであろう。

○水配りモニュメント ・・・ 伊豆七島の神がみが水を分けおうたという伝承に基づく。天上山の不入沢(はいらないさわ)がその旧跡とも伝う。

←右から三番目の少女神(利島?)がそこそこ萌え系。

○流人墓地

←お墓の写真なのであちこちに曇りがありますね。奥がジュリアおたあ様のお墓と伝わるもの。あとは日蓮宗不受不施派の僧侶たちである。

○二十三夜さま ・・・ 二十三夜待ちをした高台らしい。廻国行者の墓などもあった。

←集落の中にあるのだが、コワい感じがあった。

○竜神さま ・・・ 港内にあり。

←中央右寄りの岩場の上が竜神さま。四角い防波堤の中は外とつながっていて、かなり深い海。右端の白いのはツナミ観測でちょっと有名になった神津島観潮所。

○閻魔洞 ・・・ 集落の北端を示すものならん。

←石像全部磨滅していてかなりコワい。閻魔様が笑っているのもコワい。奥の暗くなっている岩の上にも・・・。

○赤崎海岸

○名組海岸トロッコ跡 ・・・ 70年前の近代化遺跡なりという。

○阿波命神社 ・・・ 事代主命の后、物忌奈の母である阿波命を祀る。式内社なり。「阿波」は「阿波海人族(木氏)」を意味するか。

←真ん中あたりの赤瓦が再建拝殿。右手の石段が土砂災害を受ける前の旧社殿地。

←このへん、こんな海岸と砂浜が交代で現れる。

○メッポー山

○うちぬき岩

○メイシ岩

○神津島温泉 ・・・ しよっぱい。

13日(月)

○ほうそうさま

○こんぴらさん

○猿田彦・地蔵 ・・・ 村内に多数あり。

○日向神社 ・・・ 「ひむか」=東の意か。多幸湾・三浦港を見下ろす位置にあり。物忌奈命の配偶神とも。

←水源の森にいます。

24日(金)

会社やめた? 平日なのに奄美大島へ。

○奄美パーク ・・・ 基本を学ぶ

○田中一村記念美術館 ・・・ すべてを削ぎ落した貧困生活の中、奄美の風物を描き続けた異端の日本画家、田中一村の作品を収蔵。施政権返還50年を記念して建てられたそうです(ちなみに昨年12月が返還60年)。栃木→千葉を経、日展への数次の「落選」の後、昭和33年奄美入り、以降大島絞染工場で働きながら描く。生涯独身。その怖ろしいまでに迫真の写生画を中央画壇には発表せず、昭和52年69歳で亡くなるのですが、晩飯を作ろうとして心不全で倒れ、死後数日してから発見された。

わたくしの「本来あるべき人生」をお歩みになられた大先達である。

画もすばらしい。対象の自然物の精確な写生など「日本のゴーギャン」という陳腐な「謳い文句」には押し込められ得ぬものあり。

○奄美パーク展望台

○奄美姑神社 ・・・ アマミコさまを祀る。下の「あまんでー」の「お通し拝所」になっております。アマミコさまは天よりこの地に降りてこられた女神さまで、男神のシネリコさまとともにこの地の祖霊となられた。その信仰は沖縄にも広がったようであるが、15〜16世紀に琉球王府がこの神話を「盗んで」、王家発祥の祖先神みたいにして首里体制の中に組み込み、ついにはアマミキョ・シネリキョの墓が浜比嘉島にあることになったわけである。

←道端にあった奄美姑神社。

←階段登ると拝殿。中には琉球風の香炉あり。拝殿の左に奄美嶽(アマンデー)が望まれる。(この写真では尾根が少し見える程度)

○アマンデー ・・・ 「奄美嶽」の意。アマミコさまはこの山にはじめて天降りましました。東に向けての眺望、喜界島まで見渡して壮快この上無し。

自衛隊道路から少し山道を歩いたところに「アマンデー」あり。ここに天降りませりという。そのあと天に一度戻って、土や岩を取に行く。島南部の湯湾嶽にも天降ったというので、そちらは二度目か。

←上の碑のところから東側を見ると、こんなふうに見えまちゅ。

○宇宿貝塚遺跡 ・・・ もう閉まってました。

○土盛海岸

○あやまる(綾毬)岬

←岬より北方を望む。

○蒲生神社 ・・・ 南走平氏はこの神社のある蒲生崎に蒲生某を置いて、北から来る源氏追討船を見張ったという。蒲生崎展望台でサンセットを拝む。ちょうど日が沈んだあたりが、もう一つの平氏の見張り台でユタの祭で名高い今井岬であろう。

←岬に向かう道から左に降りたところにあり。平家侍、蒲生左衛門、笠利間切屋仁村にあり。例年祭り九月九日。(「南島雑話」後篇)

←岬の展望台から。ふつうこんなの見たらもう東京には戻りませんよね。

←これは少し南下して、蒲生崎を見たもの。

25日(土)

奄美大島等調査中

○龍郷・仏像墓 ・・・ 変なものを見つけた。市の指定史跡。西郷隆盛謫居跡を探したが不明。

←仏像墓。右の方に仏像あり。真ん中と左側の堂宇状の石塔の中には戒名らしきものが彫られていた。山の中にぽつんとこんな場所がある。

○今井権現 ・・・ すごい石段昇った。疲れた。ありがたかった。

←入口の鳥居。ここまで来るのもたいへんでしたが・・・。左側の小屋状のものはここから登る体力が無いひとが賽銭等を入れるための遥拝祠。この右手にじっとしているおじいさんが座っていた。

←そこから、すごい石段を登る。

←ほとんど死にかけたころ、ようやく拝殿へ。ここは海に突き出した岬の先である。

←ここで海の向こうから源氏が来ないか見張っていた、という。源氏が来たらもちろん、来ないときも三日ごとに、下の行盛神社のところにいた行盛さまに報せることになっていた。ところがそんなある日、あの事件が起こったのだ・・・(事件のあらましは「大奄美史」昇曙夢「大奄美史」(昭和24奄美社・2004復刻南方新社)p103〜104を参照せよ。)

○行盛神社 ・・・ 戸口集落にあり。左馬の頭・行盛さまを祀る。

←行盛神社入り口。今井権現の石段のせいで足ガクガクでしたが、がんばってお詣りする。

←境内。奥が拝殿。その裏の山が、かつては水源地となっていたようである。

○有盛神社 ・・・ 浦上集落にあり。山自体が中世城郭となっている。また、テラと呼ばれ、ノロ祭祀の場であったとのこと。裏手の山に有盛墓(文化年間に建てたるもの)あり。

←拝殿。有盛墓の写真も撮った。

○おがみ山 ・・・ 名瀬のまちの「腰当て」で、「拝山」の意とも「御神山」ともいう。祭祀施設はまったく無く、行幸公園、展望公園、復帰記念公園などから成る。

加計呂麻島へ、瀬戸内の古仁屋から瀬相に渡る。

 ←古仁屋から瀬相へ。

瀬相からバスで諸鈍集落へ。すごい道を走る。海美しい。

←かっこいい加計呂麻バス。

○大屯神社(おおちゅん)・・・ 三位中将・平資盛を祀る。諸鈍シバヤ祭で有名。

←大屯神社正面。よくここまで来た、と感慨深し。

大屯からは歩いて山越えし、生間から古仁屋へ。

○西古見・旧日本軍観測所跡 ・・・ サンセット壮大なり。三連立神など指呼に望まれる。観測所内の精確な島嶼図などボロボロになっているけど一見の価値あり。平成16年まで地元民にもほとんど知られていなかったよし。

←観測所。中にも入れる。

←こんなサンセットが。

平家関連の五神社全部回れた。コンプリート。フルハウス。ありがたや。

26日(日)

○奄美博物館 ・・・ 一度行きたいと思うていたで行った。「南島雑話」の色つき複写、首里王府のノロ任命辞令などチェック。島尾敏夫・みほご夫妻先生の年譜など読みこむ。1990年代に流行った「女子高生ゴリコ」の作者が島尾夫妻の孫だとはじめて知った。このほか、注目はアマミノクロウサギ・ルリカケスの触れる剥製、復帰運動期の垂れ幕「復帰を妨害する者はすべて民族の敵だ」(←当時の運動リーダーが〇○党であることがよくわかります)など。

←アマミノクロウサギ。「大和(本土)の兎より短く(小さい)、如猫(ネコのようである)。朽木に穴を掘る。味、倭(やまと)に同じ。少し味薄しとも云」(「南島雑話」)

←ノロの祭を再現したもの。左端のおばちゃんが持っている白いモノは聖飲料「ミキ」。

○秋名の豊年マンカイ関係施設 ・・・ 国指定の無形文化財である祭礼である。今回は祭礼のはじめにノロたちが祈りをする高台を見学。おそらくこの裏山が「腰当て」で、この高台が「ウタキ」、裏山から降りてくる祖霊神をここで迎え、神人たちとともに集落に降りていき、ショチョガマ→砂浜で祖霊神を見送る、というのが祭りの原形であったろう。・・・ということならこのあたりに・・・と思って高台の少し裏手を探すと、やっぱりありました。おそらくここが・・・。

○秋名の厳島神社 ・・・ 奄美大島の村落の基本は背中に腰当て山、海から見て村の右手に「神社」がある。従来の「ウタキ」「ウガン」の場であろうか。

○城間のトフル墓 ・・・ 時間の関係で1〜6号墓のうち1・2号しか見れなかったが、普通の家の裏手にあった。トタンで覆いはしてあるものの、今も数百体の貴重・尊厳なる人骨が眠っているはずである。「トフル」あるいは「トホロ」というのは風葬墓である。

始め死する者を穴蔵に入るる処、是をトホロと云。今、笠利間切の宇宿村(←これが城間のトフル)、また同間切手花部村にもこれ有り。島中諸所にトホロあり。桶ともに納め置く。三年忌にその骨を洗て・・・・(「南島雑話」後篇)

←トタン板で覆われた奥がトホロ。前に花が飾られてある。

○鷄飯おいしうございました。コメおいしうございました。ラーメンおいしうございました。水が軟水だからコメ飯が美味い。沖縄よりメシがうまい、景色きれい、人が・・・。

2月9日

昨日は大雪。今日も積雪の中、調査。

○北野天神

○新井薬師

○哲学堂 哲理門、三学台(平田篤胤、林羅山、釈凝然)、六賢堂、宇宙堂

←哲理門。左に幽霊、右に天狗の像あり。←六賢堂。

←雪中、すでに梅花あり。左手に三学台、奥は宇宙堂。

○江古田・茅野浅間神社(富士あり)

2月16日

今日も積雪の中、調査。

○船橋・山野浅間神社

○船橋市郷土資料館 ・・・ 3階まであるのですが、ちょっと食い足りない感じ(無料だから他県民には文句は言えませんが)。民俗資料としては唐箕とか脱穀機とか・・・。漁業関係に少し目新しいものがあったが。歴史的には丹羽正柏(伊勢松阪の医師、紀州藩医)の活動など。なお、昭和史に名高い?「船橋ヘルスセンター」は昭和30年開園、52年には閉園したとのこと。わずか22年しか継続してなかったのだ。

○明治天皇行在所碑 ・・・ 書は山縣有朋元帥。

○神明神社

○御嶽神社(蔵王三尊像ありという)

2月22日

○恩納・前兼久の拝所

←寒かったが、沖縄っぽい空になっていました。→この後コザへ。

2月23日

○山田城跡付近散策

・山田谷川(やーがー)の石矼

←鬱蒼たる森道に入っていくと石橋があった。附近に山田旧村(明治時代に今の場所(国道を隔てた海側)に移転)のアシャギ、火ぬ神殿内、遥拝御嶽(おとおしうたき)などの跡があるらしい。

・久良波大主の墓

←真昼間でもちょっとコワい。大主は中央部の洞穴に祀られているようです。

 

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