フィールドワーク録15 (起:平成26年3月9日(日)) 目次へ 平成26年1月〜2月へ
←西方浄土の入口ならん。○ぬまでにもう一度見たいが、○ねばあそこに行けるのかも。
3月9日(日)
鎌ヶ谷
○下総小金中野牧 ・・・ 鎌ヶ谷の市内に不思議な空間。江戸時代の小金牧の一部が遺されて国指定史跡となっているもの。
←入口。まわりは住宅など。
○初富稲荷 ・・・ ここも不思議な空間。小金牧廃止後、入植したひとたちが明治2年に創建。地蔵とか観音とかいろいろいる。
←社地自体は道路建設のために平成何年かに数十メートル動かしているらしい。
3月15日(土)
○上野の森美術館 ・・・ 知り合いの画家(しかも女流!)の出品見てきた。
○上野公園を散策
・天海僧正毛髪塚 ・・・ 毛髪があったのはだいぶ若いころなのでしょうなあ。
・王仁博士頌徳碑 ・・・ 昭和15年だかに建てたもの。ところで、韓国で白村江の戦い祭というのをしているそうです。負けて追い出されたやつらはみんなこっち(列島)に来ており、今そちらにいるのは勝ったやつらともまた違うひとたちだ、という状況なのだが、日本国内も「地域おこし」のために歴史を「修正」し続けていますから、韓国のことをとやかくいうわけにはいくまい。
3月16日(日)
○検見川浜・稲毛浜 ・・・ 東京湾に沈む夕日を見てきたぜ。
4月5日(土)
しばらくフィールドワークをしてなかったのでタヒんだと思っていた方もいるかも知れませんが、まだまだタヒんではおりませんでした。
埼玉県戸田市
○彩湖公園
4月6日(日)
埼玉県熊谷市内。
○宮前古墳 ・・・ 七世紀の下方上円墳。上円墳の上に祠あり。沖縄のウタキチックな感じ。近くに古墳名のもととなった日吉神社あり。
○平山家住宅 ・・・ 上野上杉氏の滅亡後に土着した、十七世紀の豪農の家であるという。おばぁがいて、1974ごろまで現住していた、と教えてくれた。
○熊谷水辺公園 ・・・ サクラと菜の花の間を通る。明日(月曜日)が来なければいいのになあ・・・。
4月26日(土)
久しぶりのフィールドワークですじゃ。
○平塚八幡宮 ・・・ 相模一社、毎年5月5日に国府祭が行われる。
○旧横浜ゴム平塚製造所記念館 ・・・ 八幡宮の裏手の八幡山(といってもちょっとした高み、という程度)に移築された外見ちょっとお洒落な洋館。中は喫茶店みたいに使っているようである。横浜ゴムが戦後国から払い下げを受けるまでは一帯は海軍火薬廠で、同館は将校クラブであったらしい。推定竣工明治45年という。
4月27日(日)
今日はなんと皇居(東御苑)をフィールドワーク。
○宮内庁楽部雅楽演奏会 ・・・ 当たったので行った。壱越調音取、蘭陵王、武徳楽、承和楽、貴徳、登殿楽が演じられた。気持ちよかった。ただし、席が狭いので、左右のひとが苦しそうでした。
←休憩時間中。高松宮妃殿下の御成りあり。
○宮内庁三の丸尚蔵館 ・・・ 「佳麗なる近代京焼 有栖川家伝来・幹山伝七の逸品展」を見た。
5月1日(木)
○神戸異人館 ・・・ うろこの家、というのに行った。堀江優の画がたくさんありました。
○生霊石不動 ・・・ 洋館群のただなかにあり。霊験あらたかそう。おばぁが見張っていたので早めにきりあげる。
5月2日(金)
○大輪田泊 ・・・ 古来瀬戸内航路の重要な港であった。
○新川運河 ・・・ 旧兵庫城などを掘りぬいて明治時代に出来た運河。鈴木商店もこの近くにあり。
←新川運河沿いにあった清盛くん。鬼気迫るキモち悪さ。
○清盛塚 ・・・ 十三重塔、清盛像、琵琶塚の碑。
←真ん中の清盛立像も相当気味悪いのだが「清盛くん」ほどは気持ち悪くなかった。
○薬仙寺 ・・・ いろんな碑が立っていた。
・萱の御所(後白河上皇が福原に連れてこられて幽閉されていた場所)の碑。実際の場所は新川運河掘削の際に水中になった百メートルぐらい離れたところだという。
・御詠歌連の碑 ・・・ 江戸時代に御詠歌の大流行があって、その仲間たちの立てた碑という。
・薬師の水 ・・・ 後醍醐帝も隠岐からお戻りになる途上、御不快のことあったのでこの清水をお飲みになられ治癒されたという。
・花山法皇の歌碑 ・・・ このお寺によくお見えになっておられたとのこと。
・日本国施餓鬼始まりの碑
○和田神社 ・・・ 市杵島姫命等を祀る。背後にあるのは淡路より蛭子さまが寄りついた杜という。本日お祭りらしい。
○三石神社 ・・・ 神功皇后が三韓討伐の帰りにここに上陸したとのこと。皇后が納めた三石が御神体ということだが・・・。盃状凹紋なるものを持つ石が女性原理を表すとかなんとか書いてあった。
5月3日(土)
○茨木神社 ・・・ 大阪府茨木市内にあり。式内。正門は片桐且元の居城・茨木城の搦手門であったという。
←奥の方の門が茨木城搦手門。
5月4日(日)
○安土城 ・・・ ただし入口まで。
5月5日(月)
○賢島
5月16日(金)
○山崎ハコ 39周年サンキューバースディライブ(六本木STB139)
1 橋向こうの家 2 ヨコハマ 3 帰ってこい 4 ざんげの値打ちもない 5 横浜ホンキイトンクブルース 6 このすばらしき世界 7 かもめ 8 メモリー 9 夢破れ 10 百万本のバラ 11 帰れない二人 12 海鏡 13 縁 14 気分をかえて 15 歩道橋
渡辺エリさんとかたくさん来て歌ってました。ハコさんは愛されてますね。「ハ・コ・で・す」(39周年記念ベスト盤)と「流れ酔い歌」(CD盤)買って、泣きながら帰ってきた。「流れ酔い歌」はLP盤を持っていたが、名高いシングルバージョンがボーナストラックで入ってます(←ベスト盤の一つに収録はされていたのでCDでも聴けたのではあるが)。
5月17日(土)
○戸田市美谷本(みやもと)八幡宮 ・・・ 涼しかった。
5月18日(日)
○小石川後楽園 ・・・ 水戸家の庭園。
5月24日(土)
○中氷川神社 ・・・ 式内、武蔵三宮。所沢にあり。
←意外に深い森。
5月31日(土)
○榴ヶ岡天満宮
○晩翠草堂
6月1日(日)
○愛子(あやし)・子愛観音堂
○作並街道
○榴ヶ岡(公園)
○仙台市歴史民俗資料館 ・・・ もと第四連隊兵舎を利用。第四連隊は日清日露以来赫々たる武勲あり。ガダルカナルでほぼ全滅、残余の部隊はインパールで「消滅」。
資料館には「看板げた」などなかなか見るべきものあり。唐箕はやはりあった。これが無いと日本の農村という気がしない。
6月15日(日)
○「法隆寺展」(東京芸大美術館)・・・きっぷもらったので行った。おもしろかった。法隆寺金堂の障壁画には、阿彌陀、薬師、弥勒、釈迦の四浄土が描かれていたのですね。
7月5日(土)
○金山神社 ・・・ 一つ目の大神を祀る。尾張金物師の守護神なりという。
○熱田神宮 ・・・ 久しぶりで参詣した。門前町の古本屋で「青克国カ」が1500円(内税)で出てたので買ってきた。わははは。なお熱田大神についてはこちらも参照。
←熱田神宮鳥居
←参道の大樟。神さびておられる。
7月6日(日)
○稲穂神社 ・・・ 名古屋駅西側にある神社。天保二年に集落が出来たとのこと。
7月20日(日)
海人族系神社めぐり。
○志摩国・浦神社 ・・・ 神体は一枚岩。(「花の窟」と同じ形式) 水の沁みだす岩窟、滝などもあり。地名は「立神」。う〜ん、海人族ですなあ。
○海人潜女(あまくぐりめ)神社 ・・・ まさに海人・海女の神社である。「昭和15年出稼ぎ組」の寄贈物あり。
○安乗神社 ・・・ 安政の大津波が寄せた際、この神社の地に白衣のひとが立ち、ツナミを二つに割いたという。そのほかいろいろ霊験ありという。嘉永四年(1853)、黒船から防御のため鳥羽藩が置いた大砲が遺る。安乗文楽舞台あり。
○船越浜 ・・・ 庚申塚、六地蔵などかっこいい。夫婦岩型岩石などあり。
7月26日(土)
○穴沢天神社 ・・・ 読売ランド下にあり。延喜式内。境内に神さびた「弁天窟」があって古代よりの霊水が湧いている(いつ行ってもたくさん人がいるので、いまだに一碗の水さえいただいたことはないが)。
8月23日(土)
○利府町郷土資料館 ・・・ おもしろかった。
9月21日(日)
○菅島
・埋め墓・・・曼珠沙華でいっぱいであった。
・菅島神社 ・・・ 亀石、つがいあわび(シロンゴ祭りの際に採られたものという)、元の桧(田村元)。
・白髭神社 ・・・ シロンゴ祭りの場。シロンゴ祭りは、海女どもが年に一回、菅島西岸の海(ふだんは禁猟区)に潜り、アワビを獲る祭りで、七月に行われる。このとき、最初に「つがいあわび」を採った者がその年の「海女頭」になるのだという。
・菅島燈台 ・・・ 200年前から火を灯しているのである。現在の白亜の灯台は明治六年、現役最古という。
9月23日(火)
○山崎ハコ「デビュー40周年」with安田裕美 アルバム「歌っ子」発売記念ライブ
大塚ライブハウスHeartsに行ってまいりました。
第一部 1 望郷 2 ヨコハマ 3 織江の歌 4 白い花 5 りんご追分 6 ざんげのねうちもない
第二部 7 さくらんぼT 8 空の舟 9 歌っ子 10 山の神さま 11 夜の日傘 12 ターコイズブルーの空 13 気分を変えて
7〜12は全部新曲やで。
またしばらく生きていることに意義を感じて生きていくか・・・というキモチにちょっとなって帰ってきました。
10月5日(日)
台風が来ているので神宮球場が中止になったので、今日は
○世田谷美術館
に行って、
・ロシア・アヴァンギャルドポスター展(「ユートピアを求めて」)
・北大路魯山人展
見てずぶ濡れになって帰ってきた。明日の朝あたりは風もひどくなるみたい。出勤できないよー。
←ユートピアは無かったんだよ。
10月19日(日)
○六義園
←あたたかった。さらに売店で甘酒飲んでうまかった。
○古河庭園 ・・・ 秋のバラ展開催中。
←バラアイス食う。
○平塚神社 ・・・ 中世平塚城跡。社殿裏に「平たい塚」あって源義家の甲冑三領を埋づめたり、という。
←裏の森の中に「平塚」があるらしい。その裏手は崖(いわゆる武蔵野の「はけ」)になって下りれば上中里の駅である。
今日のCSのチケットがあったがジャイが昨日負けてCS終わってしまったので、今日は午後は神宮球場で学生どもの野球観戦。
10月26日(日)
仙台を彷徨す。
←郷土の英雄・谷風像
○晩翠草堂 ・・・ 管理人の菊池さんと話した。
←仙台に日が暮れる。ああもうサザエの時間。また桃郷へ戻らねならず、そして明日はまたしごとが・・・。
11月1日(土)
そろそろ寒くなってまいりました。今日は寒雨そぼ降る中、原宿クエストホールにて、
○山崎ハコ40周年記念ライブ「歌っ子」
へ行って温まってまいりました。
1 望郷 2 飛びます 3 白い花 4 ヨコハマ 5 織江の歌 6 水割り 7 ざんげのねうちもない 8 りんご追分 9 ヨコハマ・ホンキイトンクブルース 10 ビートル 11 空の舟 12 ターコイズブルーの空 13 歌っ子 14 縁 15 山の神さま 16 気分を変えて
ぴったり二時間。歌っ子バンドかっこいい。
11月3日(月)
休日を利用して海人族関連調査を実行。
○大湊 ・・・ 義良親王(後の後村上天皇)・北畠親房、本能寺の変のあとの徳川家康などの出航地として名高い伊勢国の港湾都市・大湊を訪問す。今は小さな造船工場がいくつかあるだけの町だが、かつては博多、堺と並ぶ中世自由都市であったという。日保見(ひほみ)八幡宮に弥栄の松あり。大湊商人角屋(かどや)の庭にあった松であるよし。
○御塩殿(みしおどの)神社 ・・・ 古代より伊勢神宮に奉る塩を製する。あしゃぎ様建築物あり。
○松ヶ島城跡 ・・・ 松阪市の沿岸部にあり。織田信勝が一時居城とし、後、蒲生氏郷が入る。伊勢湾商圏を控えた広大な城下町があったそうであるが、氏郷は南方数キロの四五百(よいほ)の森に新たに築城(現在の松阪城)、城下町も一夜にして移転させたという。
おそろしく寒くなってまいりましたが、栃木県小山市に行ってきました。最大の目的は栃木に行って「レモン牛乳」を飲むことであった。
○小山氏祇園城跡 ・・・ 中世小山氏の居城@。まちのキャラが小山氏初代のまさみつくんとそのヨメの寒川尼ちゃん、というのはヒドい。
○小山評定跡 ・・・ 徳川家康が会津攻めの途上、石田三成が兵を挙げた報を受けて、東下すべきか西上すべきか討議した場所(現在の市役所あたりだという)。福島正則が家康に味方することを明言したため、ついに西上に決した。
○須賀神社 ・・・ 小山総鎮守。牛頭天王等。小山氏の祖である藤原秀郷の勧請になるという。
○小山氏鷲城跡 ・・・ 中世小山氏の居城A。1380年、小山義政は鎌倉の足利氏満に叛旗を翻し、厖大な氏満勢をこの城に迎え撃って戦ったのである。城内に土塁、空堀、鷲神社あり。
○安房神社 ・・・ 延喜式内。安房の木氏が霞ヶ浦→利根川→思川と遡ってこの地に落ち着いたときに祀ったのだともいう。
○小山市立博物館・乙女瓦窯遺跡
○小山市立車屋美術館(小口一郎木版画展)・小川家住宅
帰りの電車では「いちご牛乳」も飲んだ。こちらはただのイチゴ・オレのように思われます。
東北調査を断行。おらと一緒に調べに行くだ!
○八戸市博物館 ・・・南北朝期の部将・南部師行像が出迎えてくれまちた。
←さすがに寒かった。なおこの博物館内であるモノを撮った写真にかなりいろいろと・・・まさかデジタルでこんなことになるとは・・・。
○根城本丸 ・・・ 国指定史跡で日本百名城にもなっております中世南部氏の居館・根城の復元施設。いろいろ勉強になった。
←復元「主殿」内での再現「武事始め」の儀式。よろい・かぶとを着ているのは一族内の「年男」で、これが「御先祖」として酒を注いで回るのである。
○キリストの墓(十来墓)・イスキリの墓(十代墓) ・・・ 新郷村辺来にあり。四十年もの間「いつかは行きたい(があまりにも遠い)」と思っていたが、新幹線とレンタカー(と村おこし運動やプラザ合意後の道路網の整備など)のおかげでわたしのような在野の研究者にも到達することができたのである。
ただし「伝承館」は11月初から休みということで、戸来村の生活風俗については不明。また売店も閉まっていたので「ナニャドヤラ節」CDも買えなかった。
←手前がイスキリの墓、奥の方がキリストの墓。寒かった。
○大石神ピラミッド ・・・ 我が国には七つのピラミッド(日来見戸)があったそうですが、そのうち四つぐらいしか確認されていないそうです。広島の葦嶽、富山の尖山、飛騨の位山、それと辺来の大石神である(そうである)。この地は太陽石、方位石、星座石などがほぼもとの形で遺されており、日本ピラミッドとはどのようなものかを知ることができる場であった。惜しむらくは安政の大地震に際に「鏡石」が倒壊してしまい、この石の表側にはピラミッドの由来が神代文字で書かれていたと想定されるのだが、その面が裏側になってしまっていて読めなくなているのは残念なことである。
なお星座石の割れ目から「内部」に入れることが今回の調査で判明し、そこがおそらく「至聖所」であったろうことが推測されたが、今や統御されていない何等かのエネルギーが充満している可能性もあり、また「割れ目」から入り込むには調査者があまりにも肥満していることもあって途中で調査を断念した。
←到着。「クマに注意」「ハチに注意」の看板あり。
←星座石と祠。この星座石に割れ目があって・・・。
○是川縄文館 ・・・ 是川、風張などで発掘された縄文土器、石器、土偶ちゃんを展示。そこそこ迫力あった。
11月23日(日)
○物見岩 ・・・ 鮫角燈台近くにあったうたきチックな丘。
○蕪嶋神社 ・・・ 八戸港の東側を画する蕪嶋にある神社。祭神は弁財天と思われる。七福岩もあり。「かぶ」島とは「神」島、あるいは「神場」島の訛という。すぐ西側の浜が中世以来の「鮫の湊」。義経さまも来たという。
ウミネコの繁殖地として天然記念物だかなんだかに指定せられてあり。
○八戸市水産科学館(マリエント) ・・・ 勉強になった。水族館にしては300円と安値。熱帯魚が飼育されておる中に「ヨツスジリュウキュウスズメ」もいました。
名にし負はばいざこと問はむリュウキュウスズメわが思ふひとはありやなしやと
○葦毛崎展望台 ・・・ 旧海軍防空無線台だということである。
○種差海岸 ・・・ 淀の松原、コウモリ穴、白岩、海金剛などの名勝あり。嶋大明神の祠もあり。大正・昭和のはじめに「今広重」と呼ばれた風景画家・吉田初三郎(鉄道観光用のかっこいい鳥瞰図をたくさん描いたひと、といえばわかりますかね)の別荘兼アトリエ「潮観荘」の跡地もあり。
←撮った写真はおいおい。なおコウモリ穴は民間信仰の対象になっているようで、そこにもあった・・・。
←淀の松原
←まるいのが「白岩」。高さ約20メートル。白いのはウミネコの糞だそうである。
11月24日(月)
休んでいいというので今日も会社へは行かず。
○江東区深川江戸資料館 ・・・ 常設展は江戸の町並の復原、企画展では「相撲の歴史と本所・深川」。大鵬幸喜氏の特設コーナーあり。勉強にはなったが、一方で近代相撲の歴史の浅さ(明治期の陣幕久五郎らによる改革)、地理的な広がりの狭さ(全国に知れ渡ったのはラジオ放送以降?)に今さらながら気づかされた。
○東京都現代美術館 ・・・ いろいろやっていたが、観に来ているひとたちの髪形や化粧や服装のセンス見ている方がおもしろかった。
11月29日(土)
国立博物館にて日本国宝展を拝観。「仏足石」について最近イラスト画いたりしていたのに、国宝展の最初に「仏足石」があったので「これに影響されたのか?」と思われるので悔しい。
11月30日(日)
上総湊→浜金谷を歩き、海人族の足跡を確認す。黄金井戸が落石危険で観覧できなくなっており、ショックを感じた。
12月7日(日)
鎌倉行った。
○鎌倉文学館 ・・・昭和の放浪の歌人・山崎方代の特集展示中。たいへん勉強になる。
沈黙を長くつづけし石ゆえに石の笑いはとどまらぬなり
ふかぶかと雪をかむれば石すらもあたたかき声もあげんとぞする
山崎方代の放浪生活を支えていたのは傷病恩給(ティムール島での戦傷で片目失明)ではないかと思われるが、その点の説明が無いのはイカにも文学館らしいというべきか。
←文学館。旧○○家別荘。海も見えます。
○大仏さん
○長谷寺
最後片瀬江島まで歩いたので疲れました。
←江の島が見えてきたぜ。
12月13日(土) ・・・ 薩摩硫黄島調査を敢行せんとするも荒天によるフェリー欠航に阻まる!
○桜島ビジターセンター
○鹿児島市立ふるさと考古歴史館 ・・・ 勉強になったのですが、熊襲・隼人紹介のビデオがちょっと・・・隼人らしい男が出てきて、「自衛のための戦いだったのです」とか「わたしたちは南九州で」とか、オンナの声が出てきて「わかった、わたしも闘う、でも死なないで」とか言いだして、歴史修正主義がひどくて・・・。
←歴史修正主義ビデオ
○知覧武家屋敷・庭園群
○知覧人形博物館 ・・・ ずっとこちらを見ているのが・・・。
←おどろおどろしい雲が・・・。中は撮影禁止なので撮らずにすんだ。
12月14日(日)
←静かで寂れた港であった。
・山川駅 ・・・ 日本最南端有人駅(JR)とのこと
・さつまいも・ザビエル上陸地
・琉球人墓(平成の再建) ・・・ 写真撮ってしまった。
・河野覚兵衛家古墓群 ・・・ 写真撮ってしまった。
←しかもアップしてしまう。
・旧正龍寺跡墓石群 ・・・ 正龍寺は中世からの名刹で山元氏が開基という。外交僧多く、藤原セイカも来た。この墓石群は廃仏毀釈でぶっ壊された石塔・墓を集めたもの。暗くてコワかった。写真撮ってしまった。
←見るひとがみればマズい写真なのかも・・・
・西南戦争戦没者(西郷軍)招魂塚 ・・・ 上の正龍寺跡墓石群に集まられていた内田さんなどが参加したらしい。
・地頭仮屋跡 ・・・ 石垣が遺る。
・武家屋敷跡
・山川薬園跡 ・・・ ここを管理していたがのが内田家らしい。小学校の跡地でもあった。戦時中グラマンの機銃掃射で五人亡くなっているという。日向ぼっこしている老人あり。
・山川港最古の石敢当 ・・・ 鹿児島県のは「せっかんとう」と読むんですよね。
・唐人町跡
・蔵ん筋
・現正龍寺仁王像
・熊野神社 ・・・ 中世、頴娃(←読めますか?)氏と結んだ熊野水軍が勧請したものらしいが、慶長の琉球入りの際、島津家久がここまできて戦勝を祈願し、出征将士らを見送ったという。
←昭和三十年ぐらいまで権現造りであったそうだ。
・五人番所・津口番所
・かつお節乾燥場
道の駅で「山川コロッケ」なるものを食った。これは美味かった。お薦め品である。
12月20(土)〜21日(日)
温暖斎一族は鹿児島周辺で遭難したと思われておりましたが、黒潮に乗ることができたのか、伊豆・新島に上陸していた!(以下、「温暖斎報告書」より)
○若郷・宮造神社 ・・・ 島の神社にはどこにもあったが、拝殿の左右に三つ石型の礼拝物あり。なお海岸を少し入ると「本宮」なる小祠があった。若郷に最初にひとの住みついたころの水場であったと「史実」なる掲示物に書いてあった。旧軍のトーチカ建築のために水が出なくなった云々ともあり。
←静かな宮造神社。←どこに行っても拝殿の左右にコレがあった。
←「本宮」。泉水を祀るなどほとんど沖縄的で「うたきチック」。
○姫淡井神社 ・・・ この一帯の海はかつては禁漁の「入らず」であったらしく、船を碇泊して出帆しようとしたら、白衣の女神、あるいは白髪の老人が海底のイカリを抑えて出帆させしめなかったなどの伝承あるよし。姫神ならば男神があったかと思うが、淡井根の岩あたりにあったものか。
←海岸近くにいます姫淡井神社。(歩いてよく行ったものである)
←姫淡井神社のすぐ先の淡井浜の左手にある「立神」状の岩群が「淡井根」。
○十三社神社 ・・・ 新島総社。摂社の形が南島ぽくてオモシロく、懐かしい。
←十三社神社(じゅうさんさま)の拝殿。伊豆七島最大の境域を誇るという。島内バスの運転手さんがここの「役」をやっておられたそうで大変だったそうです。神主がうんちくたれてくれるらしいが、社務所にはおられなかった。
←摂社のうち二つ。右は不明。左は為朝神社。為朝神社奥の木の陰に磐座らしきものあり。
○新島博物館 ・・・ ピラミッド形の異様な建物。いろいろ見るべきものあり。二階には草創期日本サーフィンに関する展示あって勉強になる。
←おんなのひと(の人形)が頭に載せているのが「ソリテンビン」。新島の特徴的な運搬具で嫁入り道具でもあったそうだが、実際に使われていたのは明治期から大正期までで、左下の大八車が使用されるようになるととって代わられた、とのこと。なお左端に「唐箕」あり。これがあると民俗資料館に来たな〜、というキモチになる。どこの県の製品か確認しようと思ったが表記されていなかった。
←1950〜60年ごろのサーフ板。
○井戸・網小屋
○長栄寺流人墓地 ・・・ 長栄寺は日蓮宗。新島はもと真言宗が入っていたというが、15世紀以来一島一宗となっているよし。高山で一揆起こして流されてきた飛騨んじいの墓あり。流人墓地の写真撮ってしまい、やっぱりすごいコワい写真になっていたのでアップしません(デジタルなのに・・・)。このほか、天宥上人、相馬主税などのえらい流人もいたが、ドモ安のような悪もいたという。
○観音様 ・・・ もっとも雨が激しかったこともあり、今回の探索で経巡った聖地の中で最も霊威ビシビシと感じた。「観音様」の奥には、むかしの本村の水源であったという水場の遺跡あり。うたきチック。
←観音さま。
←上の観音様拝殿の右側にこのような拝所。
○流人牢、ナゾ榎、流人塚(九人の「刃○」)など
○羽伏浦海岸 ・・・ 新東京百景の一なりという。
←こんな海岸。晴れていたら美しいと思われる。サーフィンの名所らしい。
○モヤイの丘 ・・・ 島に多くの抗火石(コーガイシ)製の「モヤイ」像がたくさんあったが、「モヤイ」とは「モアイ」とは関係なくて相互援助組織「モイイ」(沖縄のモアイに当たる)によるものとのことであった。
○大三王子神社 ・・・ 港近くの丘上にいます延喜式内(ただし論社あり)。神威ビシビシとして威あり。江戸前期までは向山山腹にありとのこと。なお向山は九世紀以降に現在の形に成長した海底火山であり、大三王子神が事代主神(三嶋大社に坐す)とみちのくちの后神(式根島に坐す)の長子とされ(「三宅記」)、伊豆の神がみを統べるとされたのもゆえなしとせぬ。
←石段を昇る←がんばって昇る←拝殿に到着
←拝殿附近より海を観る。風強し。
○間々下温泉 ・・・ 砂むし風呂は船の時間の関係で入れませなんだ。
12月28日
○中山道を深谷から籠原まで
○行田市内散策(博物館は閉まっていた)。もちろん「行田のフライ」焼きそば・卵入り食ってきた。「行田のフライ」というと「行田のゼリーフライ」のことだと思うひとが職場にいますが、この二者は大いに違うものである。
・佐間天神 ・・・ このあたり、石田三成らの忍城攻略戦の際の激戦地という。
・行田八幡 ・・・ 中世成田氏が勧請
・蔵、工場 ・・・ 明治から昭和にかけて足袋の生産でしこたま儲けた。近江商人もいたそうです。