慣例斎ですじゃ。昨日は肝冷斎が来たので更新を任せておいたのですじゃが、今日の日が暮れなずんだころには「ニンゲン社会コワいのでっちゅ」と言いながら樹木に入っていきました。
ので、今日からはまたわしがやります。が、わしもいつまで持つやら・・・。
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崇慶元年(1212)冬十月、北京(現在のペキンではなくもっと北の方)の趙天瑞、張仲和らが中京(現在のペキン)で科挙の試験を受け、みごと合格して帰る途中のこと。
当時の旅路は夜明け前に宿を出るのが一般であった。
彼らも未明に旅立ち、ようやく明るくなるころには広い平原に達していたので、平原のかなたに太陽が昇ってくるのが見えた。
「あれ?」
「あれはなんじゃ?」
その太陽の中に、変なモノが見えたのである。
日中見二物。
日中に二物を見たり。
太陽の中に二つのモノが見えたのであった。
一四足獣在前、一蛇継之、二物行甚速。
一の四足獣前に在りて、一の蛇これに継ぎ、二物行くことはなはだ速し。
四足ドウブツが移動し、その後ろからヘビが追いかける。この二つのモノはたいへんな速度で太陽表面を移動して行った。
その二つの後ろから、
次一鳥跳躍稍緩。
次に一鳥の跳躍してやや緩やかなり。
今度は一羽の鳥が現れ、あとを追いかけて飛んだが、こちらは少しスピードが遅かった。
少頃無所見。
少頃にして見るところ無し。
しばらくするとすべて見えなくなってしまった。
そのころには太陽はもう地平線を離れ、煌々と世界を照らし始めていて、直視することさえできなくなっていた。(こんな力があったらよかったけど→「視日眩まざる」)
「いったい何ものであったろうか」
みな頭を傾げたが、とうとうわからずじまい。
しかし、これだけは確かなことだ。
是後兵動、中原喪乱。
この後兵動き、中原喪乱す。
その直後から蒙古のやつらが攻め込みはじめ、我が国は中原を喪失して、混乱に陥ったのである。
・・・と、友人の蘭仲大が言っていた。
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と、金の大文人・遺山先生・元好問が「続夷堅志」巻四の中で述べておられます。「崇慶」という耳慣れない年号は「大金帝国」の元号で、1212年とその翌1213年の5月まで使われておりました。十二世紀にはさしも強勢を誇った大金帝国がモンゴル軽騎兵の前に為す術無く河南の一地方に追い込まれ、南宋に挟撃されて完全に滅亡したのが1234年(1から自然数の順列になっているので覚えやすかった)。このあと20年ぐらいですね。
わしが更新する精神力を喪うには、そんなに時間は要りそうにもありません。せいぜい2〜3日がんばったら終わる・・・カモ。天網にしばらくは見逃してもらっても、いずれは洩れなくツブれていくのだ・・・。