平成25年7月11日(木)  目次へ  前回に戻る

 

今日はむかしのしごと仲間とお中華料理でちた。言いたいことも言えたので、キモチよく帰ってきました。さあて、明日は休みか・・・と思ったら、よく考えたらまた明日も平日! この暑いのに。

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新しい話柄探すのめんどくさいので昨日の続き。

斉の末には今度は、皇帝の䔥宝巻(在位499〜501)があまりに非道であるとして遠縁に当たる䔥衍が挙兵し、䔥宝融を奉じて王宮に攻め寄せた。

宝巻は䔥衍の包囲下、黄泰平らにより弑される。彼は帝位に着いてなかった扱いで「東昏侯」と諡名された。

䔥衍は宝融を即位(斉の和帝(在位501〜502))させた上で和帝から禅譲の詔を受け、即位した。これが六朝第一の名君、篤い仏教信者・・・にして後半生は建前ばかりを優先して、国を混乱させ民を塗炭の苦しみに陥れたと悪評の高い梁の武帝(在位502〜548)でございます。

和帝は巴陵王に封じられた。

武帝は南海郡(広州)を独立国にして、そこに巴陵王を住まわせようと出発させたが、謀臣の沈約に

不可慕虚名而受実禍。

虚名を慕いて実禍を受くるは不可なり。

(先の王朝の帝を尊重したという)うわっつらだけの美名を得ようとして、実体的な禍根を残すのはよろしくありませぬ。

と諌められ、近臣の鄭伯禽に巴陵王の後を追わせ、

進以生金。

進むるに生金を以てす。

黄金を多量に服用するよう勧めさせた。

黄金を詰まらせて自ら裁するように、というありがたい思し召しである。

王こたえて曰く、

我死不須金、醇酒足矣。

我が死には金を須(もち)いず、醇酒足れり。

「わたしが死ぬのに、なぜ黄金が必要であろうか。それよりは佳い酒があれば足りよう」

と。

乃引飲一升、伯禽就而摺殺之。

すなわち引きて一升を飲み、伯禽ついてこれを摺殺す。

そこで酒を取り寄せて一升飲んだ。それからおもむろに鄭伯禽が絞殺したてまつったのであった。

―――梁の末、地方の太守であった陳覇先は帝の䔥淵明(在位555。建安公と諡名される)を弑したてまつり、䔥方智を建てて敬帝とした(在位555〜557)。二年後、陳覇先は敬帝から禅譲を受けて即位する。陳の武帝(在位557〜560)である。

武帝は即位すると、ただちに挙兵以来の同志の沈恪に敬帝を始末するよう命じたが、沈は

身経事䔥家来、今日不忍見如許事。

身、䔥家に事(つか)うるを経て来たれり、今日許(か)くの如きの事を見るに忍びず。

やつがれは一応、䔥家の梁王朝に仕えて来た者でござる。今になってこのような(もとの主君を弑殺するような)ことは見るに堪えぬ。

と答えてこれを断った。

武帝は次にかつて敬帝の側近であった劉師知

「悩み事があるが君なら解決できるかも知れぬなあ・・・」

と言葉をかけた。

劉師知はその夜、敬帝の住む宮殿に赴き、

詐帝令出宮。

帝を詐わりて出宮せしめんとす。

敬帝に宮殿の外でお会いできないか、と誘いかけた。

帝はその意を覚って宮殿を出ようとしない。

劉師知は

「わたしがお会いしたいというのにどうして避けられるのか」

と兵士らを率いて帝の居室まで踏み込んだ。

帝、

繞床走、曰、師知売我。陳覇先反、我本不須作天子、何意見殺。

床を繞りて走り、曰く、「師知我を売れり。陳覇先反するに、我もと天子となるを須(もち)いず、何の意ぞ殺さるるや」と。

帝はベッドのまわりをぐるぐる回って逃げ回り、大声で

「わしは劉師知に売られたのだ。陳覇先は先帝のときに叛乱を起こしたが、そのときわしは天子になろうなどと思っていなかった。(お前たちがわしを無理やり引きずり出しただけなのに)どういうわけで今になって殺されねばならんのか」

と叫び続けた。

師知、

「御覚悟の無いことじゃ」

と苦笑しながら

執帝衣。

帝の衣を執る。

敬帝の服の先をつかまえた。

そして、アゴをしゃくって合図をすると、

行事者加刃焉。

事を行う者、刃を加えたり。

そういうことに馴れた軍士が、喚き叫ぶ帝に刃を加え、お斬り殺し申し上げたのであった。

ついに首を絞めるのでなく刀剣で殺ってしまいましたね。

それから師知は武帝のところに赴き、

事已了。

事、已(おわ)んぬ。

例のこと、もう終了いたしました。

と報告。武帝の御満悦を得て退出したのであった。

―――次いで陳の末には・・・

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やっぱりきりがないのでまた今度。「廿二史記」巻七より。

ちなみに今日、さるところでおいらのしごとは何かね、と聞かれましたが、おいらはコドモなので定まったしごとはないのでちゅー。

 

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