まだ平日があと二日も・・・。この暑いのに。
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ちょっと暑苦しい話でもしますかな。
チュウゴクの王朝交代には、御承知のとおり、前の王者を武力で追い払う「放伐」と、前の王者から平和的に地位の譲渡を受ける「禅譲」の二つの型があることになっており、禅譲の方が「徳が高い」ことにされておりましたので、ほとんど強制であっても、形だけでも禅譲の形式をとるのが歴代の「流行り」でありました。
漢から三国の魏に禅譲されたときには、漢の献帝(在位189〜220)は山陽公として礼遇を受け、また魏から晋に禅譲されたときも、魏の元帝(在位260〜265)は陳留王として「皇帝の次、太子の上」という扱いを受け、国家の「賓客」として大切に扱われたのでございます。
ところが、晋から劉裕の宋に「禅譲」されたころから様子が変わった。
劉裕は権力を握った後、「晋になお二王あり」という予言書(逆に読めば晋はあと二代で終わり、次の王朝になることを正統化するものである)を信じ、まず自分を引き上げてくれた安帝(在位397〜419)を毒殺し(これが一代)、恭帝(在位419〜420)を建てて(これで二代)、ほとんど間を置かずに位を譲るように圧迫した。
恭帝はこれに従い、帝位を譲って零陵王となり、秣陵(今のナンキン)の宮殿に隠棲したのだった。
その後の零陵王は
懼禍、与褚妃自煮食于床前。
禍を懼れ、褚妃とともに自ら床前に煮食す。
(安帝のように)毒殺されることを恐れて、后の褚氏と二人だけでベッドの前で自ら食べ物を調理する生活を送っていた。
劉裕(宋の武帝(在位420〜422))は
使妃兄褚淡之往観妃。妃出与相見、兵士即逾垣入、進薬于帝。
妃の兄・褚淡之をして往きて妃を観せしむ。妃出でてともの相見るに、兵士すなわち垣を逾えて入り、薬を帝に進む。
后の兄である褚淡之を宮殿に行かせて、后に面会を申し入れさせた。后が面会に出ているすきに、密命を受けた軍人が垣を越えて安帝の居室に入り込み、クスリ(もちろん毒の)を差しだして、帝に服用するよう勧めた。
前帝は嘆息して曰く、
仏教、自殺者不得復為人身。
仏教うるに、自殺者はまた人身たるを得ず、と。
ほとけの教えに言う、「自殺した者はまたニンゲンに生まれ変わることはできない」と。
不肯飲。
あえて飲まず。
クスリを飲もうとはしなかった。
そこで、
以被掩殺之。
以てこれに掩殺さる。
その軍人に首を絞めて殺してもらったのであった。
―――宋の末には今度は䔥道成が権力を掌握し、宋帝の劉c(在位473〜477。この人を「宋の後廃帝」と呼びます)があまりに無道であるので王敬則らとともにこれを弑した(ぶっ殺した)。そして、劉准を迎えて帝位に就けた。この人を順帝(在位477〜479)というが、
甫三年、即禅代、封順帝為汝陰王、居丹徒宮、使人衛之。
のち三年、即ち禅代し、順帝を封じて汝陰王と為し、丹徒宮に居り、人をしてこれを衛らしむ。
三年後には禅譲させた。順帝は汝陰王となり、都の外の丹徒宮に住まわせ、監視をつけた。
順帝は宮殿の外で馬の声がするとはなはだ恐れていたそうであるが、あるとき、監視を命じられていた者が宮内に入り、
「今日からはもう何物をも恐れることはございません」
と告げるなり、帝を絞殺したてまつった。
その上で監視者は公には「病死された」と報告したが、不思議なことに
斉人賞之以邑。
斉ひと、これを賞するに邑を以てす。
䔥道成(斉の高帝(在位479〜482)が建てた新しい斉国は、この監視者に領地を与えて賞した。
いかなる者の意図であったか、歴然たるものがある。
―――次いで斉の末には今度は・・・
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きりがないので、また今度。清・趙翼「廿二史劄記」巻七より。