潜行中。
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地下生活中なので表には出られません。ヒマなのでいろいろ勉強します。
十七世紀の終わりごろの沖縄でのことですが、
東風平郡富盛村、屢遭火災、焼失房屋。
東風平郡富盛村は、しばしば火災に遭い、房屋を焼失す。
東風平(こちんだ)間切(まじり=村)の富盛(とんもり)の集落は、何度も火災が起こり、そのたびに家屋敷が焼け失われた。
村びとは何とかならないかと思い、
蔡応瑞さま
に相談したのであった。
蔡応瑞さまはチャイナ貿易の実権とチャイナの進んだ知識を掌握する唐栄(那覇のクニンダ)の人で、大田親雲上(うふたべーちん)とも呼ばれた方でございます。
蔡応瑞こと大田親雲上は、助手の童子とともに富盛にやって来て、最新知識であった「風水」術を用いて、羅盤(風水師の用いる磁石)に基づきその地勢を観察した。
そして、できあがった図面を前に
「これは・・・、う〜ん、どういうことかな?」
と頭をひねったのであった。
う〜ん、う〜ん、と悩むようすで、なかなか答えが出てこない。
やがて助手の童子が
「うっしっし、先生、あの山の形を御覧なちゃいよ」
と指摘したので、その山の形をじっと見ているうちに、ぽん、と手をたたいて
「ああ、そういうことでしたか」
と言いましたのじゃ。
村人たち、
「どういうことですかな?」
と訊ねた。
「えー、おっほん」
蔡応瑞こと大田親雲上は声づくろいをして曰く、
我見彼八重瀬嶽、甚係火山。
我、彼の八重瀬嶽を見るに、はなはだ火山に係る。
「わしは、あそこにある八重瀬岳を見てみたが、あれは明確に「火の山」のかたちをしておる」
風水術では、いろんな地形をいろいろと解釈するのですが、たとえば、山の形を木・火・土・金・水の五行に分類し、それぞれに分類された実際の山がその元素の性格を強く持つ、と考えており、画期的に科学的な考え方である、と思われておりました。
「あの山があるから火事がしばしば起こるのであろう」
「そういうことでしただか」
村人たちは頷き、続いて
「それではどうすれば火事は防げるのですだかな?」
と質したのであった。
「え? う〜ん、困ったなあ・・・」
「うっしっし、先生、何かに火を抑えさせればいいのでちゅよ」
「ああ、そうか」
また声づくろいして言った、
「えー、おっほん。
早作獅子之形、向八重瀬、可以防其災。
早く獅子の形を作りて、八重瀬に向かわすれば、以てその災を防ぐべし。
すぐに獅子の像を作りなされ。その獅子に八重瀬岳を睨ませるように像を置けば、火の精はこの村には近づけず、火災を防ぐことができましょうぞ」
「なーるほど」
ということで、村人は
蹲坐獅子石像于勢理城、以向八重瀬。
獅子の石像を勢理城に蹲坐せしめ、以て八重瀬に向かわしむ。
石でうずくまった獅子の像を作って、村の高所である勢理(ぜり)のグスクに八重瀬岳の方を向けて設置した。
自爾而後、果得免火災之憂矣。
爾(それ)よりして後、果たして火災の憂いを免るるを得たり。
はたしてそれ以降、火災の悩みに遭うことがなくなったのであった。
これは尚貞王の二十一年(1689)のことで、
始建獅子形、向八重瀬嶽、以防火災。
始めて獅子の形を建て、八重瀬嶽に向かわしめ、以て火災を防ぐ。
このとき、はじめてシーサーの像を八重瀬嶽に向けて設置し、火災を防ぐことにしたのである。
と王府の歴史書「球陽」巻八にもきちんと記述されており、沖縄でシーサー(単体)が火伏に使われた最初であるということでございます。
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この石獅子、沖縄戦で銃撃をぼこぼこに受けたが、その銃痕のあとあるまま、今も富盛の村に遺されているのである。(なお平和祈念堂内にも関連した画が展示されているので探してみてくだちゃい。)