平成25年5月13日(月)  目次へ  前回に戻る

 

平日。辛い(T_T) 。このままでは何もしようとしなくなってしまうので辛いけど更新します。

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遺老(「すごい年齢なのにあの世に受け入れてもらえずに、まだ生きているくそじじい」という意)の伝えるところによりますと、琉球中山国・第一尚氏の最初の王である尚巴志のおやじは思紹。そのまたおやじは

名叫鮫川大主。乃葉壁人。

名を叫(よ)び鮫川大主、すなわち葉壁の人なり。

名を「さめかーのうふぬし」といい、葉壁(伊是名島)の生まれであった。

伊是名から

移居于佐敷間切新里村場天之地、遂娶大城按司之女。

居を佐敷の間切(まじり)、新里村の場天(ばてん)の地に移し、ついに大城按司の女を娶れり

沖縄本島南部の知念半島にあります佐敷地方、新里村の場天の地に移転し、(佐敷一帯を支配していた)大城按司(うふぐすくあじ)のむすめを娶った。

二人の間に一男一女が生まれた。

其男思紹也、女叫場天祝。

その男、思紹なり、女は場天祝(ばてんのろ)と叫(よ)ばる。

むすこの方が思紹で、むすめの方が場天の祝女(のろ)と呼ばれるようになった神女である。

「場天のの活躍についてはこちらを参照。・・・ということは、おやじのこの「鮫川(さめかわ)の大主」がそちらでいう「沙明嘉」(さめか)のことだったのか。

思紹は苗代というところに住んだので、世の人は彼を「苗代大親」(なわしろのうふうや)と呼んだ。

彼が佐敷の美里子(みさとし)のむすめに通じて生まれたのが巴志で、

佐敷小按司

あるいは

美里大親

と呼ばれたのであった。

その兄弟もいたというが、

籍湮世遠、虚実難弁。

籍湮(ほろ)世遠く、虚実弁じ難し。

記録はすでに滅びてしまい、また時代もはるかに遠くて、何がほんとうかうそかよくわからない。

ので、これ以上は記録いたしません。

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・・・と、「中山世譜」(蔡温版)巻四に書いてあった。

この鮫川大主、伊是名から伊平屋に移って住んでいたころがあって、そのころの名が「屋蔵大主」(やぐらうふぬし)であったとか。墓は伊平屋にあるとか。そういう話になっております。折口信夫先生はこの系統は西海倭寇の名和氏の一派で「思紹」は「しろう」だ、とその天才によって述べておりますが、拠るところがはっきりしません。すべて何がほんとうかうそかよくわからない時代のことでございます。

―――じゃいあんにやられて力が入らないので、今日はここまで。

 

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