平成25年4月23日(火)  目次へ  前回に戻る

 

しごと、そろそろ限界か。もう現代はイヤ。

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ということで、今日は平安時代に流れてまいりました。京都の奥の山の中です。歌でも歌おうか。誰に聞かせるというわけでもないが、ひとりさみしく、箸で茶碗を叩いて歌いまちゅる。

世無朋友室無妻、  世に朋友無く、室に妻無く、

不奈生涯与世睽。  生涯世と睽(そむ)くを奈(いかん)ともするなし。

 世間に出ても友だちはおらず、家に帰ってきても女房(※)もいない。

 生まれて以来の世間さまとうまくいかない生き方も、変えようがないんだからしようがない。

人の心を打つ出だしでちゅねー。おいらも涙がにじむ。

※しかし、カシコいみなさんには申し上げる必要もないでしょうが、「女房」の訳は×です。東京などの知識階層のようにちゃんと「パートナー」と言わないと、「アエラも読んでないんじゃないか」と叱られるよ。

この山中では、

暁峡夢深猿一叫、  暁峡 夢深く、猿一叫し、

暮林花落烏先啼。  暮林 花落ちて、烏まず啼く。

 明け方の峡谷では、深い夢を覚ますかのように、サルが悲しく叫び、

 暮れなずむ林では、落ちる花びらの間で、カラスが闇に先だって鳴く。

そんなわびしい中、おいらの毎日は、

五湖売薬随雲去、  五湖に薬を売り、雲に随いて去り、

三径横琴待月携。  三径に琴を横たえて、月を待ちて携う。

 五つの湖のあたりでクスリを売って、売り終えれば雲のあとに従って山の中に戻ってくるのさ。

 庭の三本の小道の分かれるあたりに琴を置き、月の下でひとりつまびいて飽きれば庵に帰るのだ。

という生活。

戦国の時代、越王勾践を助けて呉を滅ぼすことに成功した范蠡は、功成った後、

大名之下難以久居。且勾践為人可与同艱、難与処安。

大名の下には以て久しく居り難し。かつ、勾践の人となりやともに艱(くる)しみを同じうすべくも、ともに安に処り難し。

あまりにも大いなる名誉のもとには無事でいることはできない、と言う。それに、越王勾践さまの御性格は、困難をともにすることのできるひとであるが、安逸の中で他者を疑ったり干渉したりせずにいられるひとではない。

と言うて職を辞し、五つの湖のある地方(五湖の地)で薬を売って巨富を得、陶朱公と称された。後また富を棄てていずこかへ去って行ったという。(「史記」巻四十一「越王勾践世家」より。より詳しくは参考→「陶朱公」

すなわち、「五湖売薬」とは官職を辞めて自由人となることの比喩である。

また、漢の蒋詡(しょうく)は隠棲して、庭に三径(三本の小道)を作り、それぞれのほとりに松・菊・竹の三友を植えた。この故事から「三径」は隠遁者の庭をいう。

これを踏まえて、晋の陶淵明「帰去来辞」にも

三径就荒、松菊猶存。

三径は荒に就(つ)けども、松・菊はなお存す。

(田舎に隠遁しようとするわけだが、田舎の家の)庭の三本の道は(手入れしていなから)荒れ果てているだろうけど、(竹はダメでも)松と菊はまだ残っているにちがいない。

という。陶淵明は琴を弾くことができなかったが、無弦の琴を所有していて、興が乗ればその弦の無い琴を弾いて(要するにエアギターである)懐いを遣った人であるから、「三径に琴を横たう」とは陶淵明のような隠遁生活をいうているのである。

いい生活でしょう、わはははー。

―――と思いきや、夜半の寝は覚めた。

枕上心閑帰夢断、  枕上 心閑にして帰夢断たれ、

如何白首老清溪。  如何せん、白首 清溪に老ゆるを。

 枕したまま空っぽの心で考えている。隠棲の夢は途絶え、現実に立ち戻れば、

 すでに白髪の齢となり、このままこの谷で老いていくばかり。どうすればいいのだろうか。

どうすればいいか?

答えはわかっておりますがなー。「ちゃらば」と現世から、おわかれするだけでちゅよー。

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なおこの詩は大江朝綱(886〜957)の「山中感懐」。朝綱は↑ではぶつぶつ言ってますけど、村上帝の覚えもめでたく、儒学の家・大江氏の氏の長者として、文章博士、左大弁、さらに参議まで昇った人であるから、エライひとだったんです。この詩、どういうときに作ったのかわかりませんが、そんなエライひとでもいろいろお苦しいことはあったのでございましょう。「友も無く、妻(※※)も無し」は身に沁み入りまちゅるなー。

※※また「妻」なんて書いちゃって。遅れてるー。ちゃんと「パートナー」と書かないと「アエラ」読まされるよ。

 

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