今日はコワい夢見ました。朝起きたら月曜日で、会社へ行って仕事して叱られたり悩んだりしている夢です。やっと家へ帰れた、明日もこんなんだったらどうしよう・・・と思ったところで目が覚めまして、古代の童子に戻りました。ああコワかった。
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昨日の続き。
南伯子葵が質問した。
道可得学邪。
道、学ぶを得べけんや。
「あの、その「道」というものは学習して会得することができるものなのでしょうか・・・?」
女禹さま、冷たい目をして答えた。
悪、悪可。
「はあ? あく、あくか?」
何を言われたのか一瞬わかりませんでしたが、これは、
悪(ああ)、悪(いず)くんぞ可ならんや。
「まあ、どうしてそんなことができましょうか?(できませんよ)」
と読むのでしょう。
「ど、どうしてですか?」
子非其人也。
子はその人にあらざるなり。
「あなたはまだ道を会得できるタイプの人になってないからです」
女禹さまの曰く、
「卜梁倚(ぼく・りょうい)という人がいます。御存知ですか?」
おいらたち二人は知らなかったので首を横に振ったが、女禹さまは続けた。
「御存知でなくてもいいのです。・・・彼は
有聖人之才而無聖人之道。
聖人の才有れども聖人の道無し。
聖なる人というべき才能はありますが、聖なる人となるための道を知らない。
これに対し、
我有聖人之道而無聖人之才。
我は聖人の道有れども聖人の才無かりき。
あたしは聖なる人となるための道は知っていたけど、聖なる人というべき才能は無かったの。
あたしは卜梁倚に聖人となるための道を教えてあげようとしたけど、
其果為聖人乎。不然。
其れ果たして聖人たらんや。然らず。
彼は果たして聖人となれたでしょうか。ダメでしたー。
おほほほー」
女禹さまはにこやかにお笑いになられました。まるで花の咲きこぼれるような笑顔でありまちゅる。
「おほほほー。でも、聖人となる道を持っている方が聖人というべき才能を得るのは簡単でしたのよ。あたしはただ、自分の本性を守ってじっとしているだけでよかったのです。すると、
参日而後能外天下。
参日にして後よく天下を外にす。
三日経ったら、社会・文化関係の中にある意識を客観化し、自分をその外に置いて考えることができるようになった。
已外天下矣。吾又守之、七日而後能外物。
すでに天下を外にす。吾またこれを守りて、七日にして後、よく物を外にす。
社会・文化関係から離れたあと、あたしはまた自分の本性を守ってじっとしていた。七日経ったら、今度は物質としてのこの身体を客観化し、自分をその外に置いて考えることができるようになった。
已外物矣、吾又守之、九日而後能外生。
すでに物を外にす。吾またこれを守りて、九日にして後よく生を外にす。
物質としての存在から離れたあと、あたしはまた自分の本性を守ってじっとしていた。九日経ったら、生きている、ということを客観化し、自分をその外に置いて考えることができるようになった。
その次の朝には、すべてがわかった(「朝徹」)。それからは、
見独
ができました」
「見独とは?」
「他の人に見ることのできない「大いなる道」を自分だけは見ることができること」
「なるほど」
「その後は、見独→無古今→不死不生と進みました。
「不死不生とは?」
「おほほほー。
殺生者不死、生生者不生。
生を殺す者は死なず、生を生ずる者は生きず。
「生きていること」を止めてしまうと死にませんし、「生きていること」を生み出す本体は「生きている」ということからは離れています。
だから不死不生(死にませんし、生きてもおりません)という境地に達するのよ」
「うひゃあ」
おいらたちはあまりに難しいので頭を抱えこみました。
「ま、まいりましたー」
「おいらたち、とっとと引き揚げさせていただきまちゅー」
さて、南伯子葵は最後にお訊ねしたのでございます。
子独悪乎聞之。
子ひとりいずくにか、これを聞く。
女禹さまだけが、こんなことをどこでお知りになられたのですか。
女禹さま曰く、
―――あたしは副墨の子に聞きました。
副墨とは、墨に副(そ)うもの。すなわち、文字によって記された書物をいうのですね?
―――さあ、どうかしら。副墨の子は、洛誦の孫に聞いたそうです。
洛誦とは、洛(地名)のあたりで誦するもの。すなわち、洛水あたりで口述で伝えられてきた言葉のことですね?
―――さあ、どうかしら。洛誦の孫は、瞻明(せんめい)という人に聞いたそうですよ。
瞻明とは、うっすらと明るい、ということ。目で見ることのできる図絵で伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。瞻明さんは、聶許(じょうきょ)という人に聞いたそうですよ。
聶許とは、耳で聞いたもの、ということ。単純な音や声で伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。聶許さんは、需役(じゅえき)という人に聞いたそうですよ。
需役とは、体を使ってなすこと。身体の中の自律的な運動として伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。需役さんは、于謳(うおう)という人に聞いたそうですよ。
于謳とは、「うう」「おお」と呻くこと。原始の発語の中から伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。于謳さんは、玄冥(げんめい)という人に聞いたそうですよ。
玄冥とは、まわりの見えない闇の中、ということ。心の奥の無意識の暗がりの中から伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。玄冥さんは、参寥(しんりょう)という人に聞いたそうですよ。
参寥とは、虚無の中に入り込む、ということ。無意識の奥、生死を越えた虚無の中から伝わってきた、ということですね。
―――さあ、どうかしら。参寥さんは、疑始(ぎし)という人・・・かどうか知らないけど、それから聞いたそうですよ。
疑始とは、仮設されたすべての始まるその時点。宇宙の始まりのビッグバン・・・。
―――さあ、どうかしら・・・。
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以上でおしまい。「荘子」大宗師篇三章より。女禹さまが回答した後唐突に終わってしまうなど物語性に乏しく、またこの後チュウゴクにも伝わってくるインドの仏法ほどに意識の分析が精緻ではない。稚拙でさえありまちゅ。しかしその分、逆に荒々しいほどの存在感を持って古代の人の心が迫ってくる!ではありませんか。・・・ないですか。そうですか。ぐすん。