平成25年1月21日(月)  目次へ  前回に戻る

疲れました。緊張感を与えるとダメなようです。

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さて、帝堯の時代、

ずどどど〜ん。・・・・・・・・・

と、これは楚の荊山に落ちてきた星がございました。

「うひょひょひょ〜」

と土煙の中から出てきましたのは、コドモ。童子でございます。

歳星之精、墜於荊山。

歳星の精は、荊山に墜つ。

歳星(木星)の精である「歳星童子」は、楚の荊山に落ちたのでありました。

「うひゃあ、びっくりちまちたねー。こんなに大バクハツになりまちゅとは」

しかしまだ当時はニンゲンの数も少なく、荊山のあたりは人跡未踏でしたので、事故はありませんでした。

まわりに誰もいないのでヒマです。歳星童子は毎日毎日遊び暮らしておりましたが、そのうちそれにも厭きてきまして、

「ちょうだ! 玉になっちゃえ」

と、

ぼわ〜ん

と変化しまして、一個の玉となった。

この玉、

側而視之、色碧。正而視之、色白。

側してこれを視れば色碧、正にしてこれを視れば色白なり。

横から見ると青緑、正面から見てみると純白。

という不思議な玉であった。

玉に変じた童子は

「うひゃひゃ、これは楽チン楽チン」

と丸まって眠りこんでしまいました。

―――それから何百年、何千年と過ぎ去った・・・・・・

★時は紀元前8世紀、春秋の初期のことでございます。

楚の和(か)氏、山中において玉璞(まだ加工していない玉の原石)を得た。その色、不思議に澄み、横から見れば碧色、正面より見れば純白に輝く。

「これは素晴らしい宝物じゃ」

和氏はこれを楚の脂、に献じた。

脂、使玉人相之、玉人曰、石也。

脂、、玉人をしてこれを相せしむるに、玉人曰く、「石なり」と。

脂、は玉の専門家にこれを鑑定させたところ、専門家は「これは単なる石ですね」と答えた。

「なんじゃと! わしをたばかりおって!」

王以和為誑、而刖其左足。

王、和の誑を為すを以て、その左足を刖す。

王は、和氏が詐り事を為したとして、その左足をちょんぎってしまった。

さて、また時が流れました。

脂、が亡くなり、武王の時代になりました。

和又奉其璞、而献之武王。武王使玉人相之、又曰、石也。王又以和為誑、而刖其右足。

和、またその璞を奉じてこれを武王に献ず。武王、玉人をしてこれを相せしむるに、また曰く、「石なり」と。王、また和の誑を為すを以てその右足を刖す。

和氏はふたたびその原石を、武王に献上した。武王は玉の専門家にこれを鑑定させたところ、専門家はふたたび「これは単なる石ですね」と答えたので、王はまた和氏が詐り事を為したとして、今度はその右足をちょんぎった。

武王が亡くなり、文王が位についた。(時に紀元前689年と伝わる)

和乃抱其璞、而哭於楚山之下、三日三夜、涙尽而継之以血。

和すなわちその璞を抱き、楚山の下に哭すること三日三夜、涙尽きてこれに継ぐに血を以てせり。

すると、和氏は原石を抱いて、楚山の麓に逃げ出し、ここで声を上げて啼くこと三日三晩。涙は尽きてしまったが、それでも両の目から血を流して泣いた。

新しい王はそれを聞き、使いを立てて和氏にその理由を質さしめた。

和氏、答えて曰く、

吾非悲刖也。悲夫宝玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也。

吾は刖せらるを悲しむにあらざるなり。それ、宝玉にしてこれを題するに石を以てし、貞士にしてこれに名づくるに誑を以てするを悲しむ、これ吾が悲しむゆえんなり。

「わたくしは足をちょん切られたのが悲しくて泣いているのではありません。(王の信頼する無責任な近臣によって、)宝とさるべき玉でありながら「ただの石だ」と鑑定されてしまうこと、正しい志の人物でありながら「うそつきだ」と名指されてしまうこと、このことが悲しくてならないのでございます」

と。

王、これを聞き、

乃使玉人理其璞、而得宝。遂命曰和氏之璧。

すなわち玉人をしてその璞を理(おさ)めしめ、しかして宝を得たり。ついに命じて「和氏の璧」と曰う。

すぐさま玉の専門家に命じて(鑑定などをさせずに)玉を磨く作業をさせた。すると、原石の中から世にも素晴らしい宝玉がみがき出され、美しい玉の環が現れたのである。王は、代々の先王と近臣たちに虐待されながらも、玉を抱いて真心を失わなかった和氏の功績を記念して「和氏の玉環」と名付けたのであった。

そしてこの璧を自らの帯に佩し、これを見、これに触れるたびに、才能を持ちながら正当な評価や地位を得られず世に埋もれている人物を見出すことを心掛けたのであった。★ (★〜★まで、「韓非子」和氏篇より。)

この璧(玉製の環)はその後戦国に入って趙の宝物となり、趙の宰相・藺相如がこれを使って秦から「連城」(隣り合った複数の町)を取り戻したので名高く、ために「連城の璧」とも呼ばれるようになりました。(「史記」等参照のこと)

後漢書・班固伝にいう、

和氏之璧、千載垂光、屈子之篇、万世帰善。

和氏の璧、千載光を垂れ、屈子の篇、万世善に帰す。

和氏の玉環は何千年にわたって光を放ち続け、屈原のつくった「離騷」や「九歌」のうたは、何万世代にもわたってニンゲンの本来の心を呼び覚ます。

まさにこの二つこそ、戦国の時代が後世に遺した宝である、と。

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その後、この璧は秦が天下を統一しますと秦の始皇帝のもとにもたらされた。

始皇帝はこの璧を

琢為受命璽。

琢して受命の璽と為す。

削り彫って、天命を受けたしるしの印鑑を造らせた。

丞相の李斯が、秦が天下に通用させた「篆」字を以て、「受命天子」の印を彫り込んだのである。

その後の王朝は、

歴世伝之為伝国宝。

歴世これを伝えて伝国の宝と為す。

歴代にわたってこの「印鑑」を国を正統に受け継いだしるしとして伝えてきた。

この璽、後漢の末ごろどこに行ってしまったかわからなくなってしまったが、もとの漢宮の井戸が夜な夜なに光を発するのを見て、これを浚えたところ、再発見された、という。

・・・・・井戸から浚え出されたとき、玉の中で眠っていた歳星童子が久しぶりで目を覚ましたのです。

「う〜ん、よく寝まちたねー。あり? おいら眠っている間に、ずいぶん磨かれたり削られたりしたのね。・・・まあ、いずれにしろ地上にいるのにも厭きてきたので、ちょろちょろ天上に帰りまちょー」

かくして木星の精・歳星童子は玉の中から脱け出して、

「では、ちゃようなら」

と宇宙に帰って行ってしまいました。

抜け殻の「伝国の璽」だけは、権力を求める者たちの飽くなき欲望の対象となって地上を流転し続けている。

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五代・杜光庭「録異記」巻七「異石」より。

抜け殻となった「伝国の璽」は、ついこの間まで代々伝わって、そういえば袁世凱がどこかに埋めたという噂が・・・・・なんてウソで人を誑かそうとすると足を刖られてしまうといけないので言わないでおきます。

あと三惑星ありますが、明日は深夜までオシゴトなので、ちょっと更新は無理。びょうきがあぶない。

 

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